2011年 03月 02日
第一章:イントロダクション:その2 |
ボルテール(Voltaire)の物語に出てくる無邪気なヒューロン(Huron)は、「神が全知全能であるならば、なぜこの世に悪が存在するのでしょうか?」という質問をして、教会にいた博学な人々を困らせている。
弁神論は神学上の問題だが、その非宗教的なもの——人間の悪の存在に関する説明——も非常に魅力的なものであると同時に、混乱を呼ぶものだ。病気や伝染病、偏見による憎悪や、レイプ、盗みや殺人、略奪や戦争というのは、世界史の中に常に存在しているものだ。
ではなぜこれらは存在するのだろうか?戦争と憎悪を、同じやりかたで説明することができる人はいるのだろうか?戦争というのはただ単に「大衆的な憎悪」であり、したがって憎悪についての説明が、社会の犠牲者である人間の「悪」として説明できることになるのだろうか?多くの人間はたしかにそのように考えてきた。
「 神の恩恵によって、外からわれわれに対して災いとなりうるすべてのものからわれわれが自由であることが許されたとしても、われわれ自身のひねくれた愚かさは、新たな不幸の種や火花を、まるで火打石からたたき出すように、われわれの心の中からわれわれの身に向けてたたき出すことを一向にやめず、やがてすべてが一面の火の海となってしまうのであります。」 (ミルトン著「離婚の教理と規律」より)
つまり、われわれの悲劇というのは、われわれ人間自身の本質から生まれるものなのだ。全ての悪の根源は人間にあるのであり、人間そのものが、「戦争」という悪の原因となるのだ。
この原因についての見積もりというのは、まるで何かの信仰のように、かなり広範囲にわたって信じられているものであり、世界に大きな影響を及ぼしてきた。これは聖アウグスティヌスやマルティン・ルター(Martin Luther)、そしてトマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus)やジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)、そしてイング司祭(William Ralph Inge)や、ラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)も確信してきたことなのだ。
理性と情熱が混在し、しかも情熱が繰り返し勝利してきた存在として人間を定義してきた非宗教的な見方からすれば、この考え方はスピノザの(政治)哲学の背景にあるものだ。これについては、綿密で厳格なスピノザの著作のように、自国の人間について低い評価をしていたオットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck)の行動にも影響を与えた、と論じることもできるかも知れない。
もしある人の持つ「信条」が、彼の「期待」を条件づけることになり、しかもこの「期待」が、彼の「行動」を条件づけるのであれば、ミルトンの言葉を受け入れるかどうかというのは、人類全体の活動にも重要な問題になってくる。
そして当然ながら、誰もミルトンを信じなくても、実際のところは彼のほうが正しいのかも知れないのだ。もしそうならば、戦争の再発というものを、たとえば経済的な要因によって説明するのは面白いゲームのようなものかも知れないが、そのゲーム自体にはあまり意味がないことになってしまう可能性がある。
もしスイフト司教が言ったように「売春婦に振られた男がその女の住む家の窓を嫌がらせのためにたたき壊すという行動に駆り立てる原理は、偉大な皇太子が強力な軍隊を組織し、敵を包囲し、戦い、そして勝利することを夢見させる原理と同じである」というのが正しいのだとすれば、その皇太子が戦争を行うために使った理由づけというは、「彼らが自分でも気付かない動機」や、「気付いていても正直には言えないような動機」などを隠すための、単なる正当化にしか過ぎないことになってしまう。
そうなると、世界全体の平和を実現しようと本気で考えていたかも知れないシュリー公(Maximilien de Béthune)の計画は、戦争以外にも人類に幾多もの害悪をもたらしてきた「プライド」や「いらだち」というものを根本から改善できない限りは、フランスの僧侶クルセ(Émeric Crucé)の描いていた夢と同じくらいに、無価値なものになってしまうのだ。
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※上記の文の原著に興味をお持ちになった編集者の方は、本ブログ主の方までご連絡下さい。
弁神論は神学上の問題だが、その非宗教的なもの——人間の悪の存在に関する説明——も非常に魅力的なものであると同時に、混乱を呼ぶものだ。病気や伝染病、偏見による憎悪や、レイプ、盗みや殺人、略奪や戦争というのは、世界史の中に常に存在しているものだ。
ではなぜこれらは存在するのだろうか?戦争と憎悪を、同じやりかたで説明することができる人はいるのだろうか?戦争というのはただ単に「大衆的な憎悪」であり、したがって憎悪についての説明が、社会の犠牲者である人間の「悪」として説明できることになるのだろうか?多くの人間はたしかにそのように考えてきた。
「 神の恩恵によって、外からわれわれに対して災いとなりうるすべてのものからわれわれが自由であることが許されたとしても、われわれ自身のひねくれた愚かさは、新たな不幸の種や火花を、まるで火打石からたたき出すように、われわれの心の中からわれわれの身に向けてたたき出すことを一向にやめず、やがてすべてが一面の火の海となってしまうのであります。」 (ミルトン著「離婚の教理と規律」より)
つまり、われわれの悲劇というのは、われわれ人間自身の本質から生まれるものなのだ。全ての悪の根源は人間にあるのであり、人間そのものが、「戦争」という悪の原因となるのだ。
この原因についての見積もりというのは、まるで何かの信仰のように、かなり広範囲にわたって信じられているものであり、世界に大きな影響を及ぼしてきた。これは聖アウグスティヌスやマルティン・ルター(Martin Luther)、そしてトマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus)やジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)、そしてイング司祭(William Ralph Inge)や、ラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)も確信してきたことなのだ。
理性と情熱が混在し、しかも情熱が繰り返し勝利してきた存在として人間を定義してきた非宗教的な見方からすれば、この考え方はスピノザの(政治)哲学の背景にあるものだ。これについては、綿密で厳格なスピノザの著作のように、自国の人間について低い評価をしていたオットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck)の行動にも影響を与えた、と論じることもできるかも知れない。
もしある人の持つ「信条」が、彼の「期待」を条件づけることになり、しかもこの「期待」が、彼の「行動」を条件づけるのであれば、ミルトンの言葉を受け入れるかどうかというのは、人類全体の活動にも重要な問題になってくる。
そして当然ながら、誰もミルトンを信じなくても、実際のところは彼のほうが正しいのかも知れないのだ。もしそうならば、戦争の再発というものを、たとえば経済的な要因によって説明するのは面白いゲームのようなものかも知れないが、そのゲーム自体にはあまり意味がないことになってしまう可能性がある。
もしスイフト司教が言ったように「売春婦に振られた男がその女の住む家の窓を嫌がらせのためにたたき壊すという行動に駆り立てる原理は、偉大な皇太子が強力な軍隊を組織し、敵を包囲し、戦い、そして勝利することを夢見させる原理と同じである」というのが正しいのだとすれば、その皇太子が戦争を行うために使った理由づけというは、「彼らが自分でも気付かない動機」や、「気付いていても正直には言えないような動機」などを隠すための、単なる正当化にしか過ぎないことになってしまう。
そうなると、世界全体の平和を実現しようと本気で考えていたかも知れないシュリー公(Maximilien de Béthune)の計画は、戦争以外にも人類に幾多もの害悪をもたらしてきた「プライド」や「いらだち」というものを根本から改善できない限りは、フランスの僧侶クルセ(Émeric Crucé)の描いていた夢と同じくらいに、無価値なものになってしまうのだ。
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※上記の文の原著に興味をお持ちになった編集者の方は、本ブログ主の方までご連絡下さい。
by masa_the_man
| 2011-03-02 00:23
| 戦略学の論文

