2011年 03月 01日
第一章:イントロダクション:その1 |
どちらが戦争に勝ったのかを尋ねるのは、まるでサンフランシスコの大地震で誰が勝ったのかを尋ねているのと似ている、ということを私は誰かから聞いたことがある。たしかに「戦争に勝者はなく、その負け方の度合いがそれぞれ違うだけだ」という言葉は、二十世紀になってから段々と認められるようになった主張である。しかし戦争というのは、そもそも地震のように制御できない、もしくは決して無くなることのない、自然現象のようなものなのだろうか?
以下の意見に同意する人は少ないかも知れないが、それでもあえて言わせてもらえば、戦争を無くそうとする試みは(高貴な動機や熱心な追求があったにもかかわらず)、いままで国家間に「束の間の平和」以上のものをもたらすことはなかったのだ。つまりそこにかける努力とその成果や、それに対する欲求と結果の間には、明らかな不均衡があるのだ。
われわれはロシア人たちの間でも平和への願いは強いということを聞くし、これと同じことがアメリカ人にも言えることを信じて疑わない。このようなことを聞くとやや安心できるが、それでも過去の歴史や現在の出来事を見てみると、この願いが「望ましい状況」を作り上げることになるとはとても思えない。
社会科学者というのは、現在の状況がいかに過去と深くつながっていて、しかもどれほどシステムの部分同士が相互依存しあっているかを知っているために、「劇的に良い世界を実現する可能性」については保守的な予測をしがちである。よって、「過去に戦争が起こった場所にこれから平和をもたらすことができるかどうか」という質問に対する答えとしては、どうしても悲観的なものが多くなるのだ。
もしかすると、これは質問そのものが間違っているのかも知れない。なぜなら以下のように質問を変えてみると、答えはそれほど落胆的なものではなくなるからだ。つまり「戦争の発生を減少させ、平和のチャンスを増やす方法は存在するだろうか?」「われわれは未来において、過去よりも平和な状態をもっと増やすことができるのだろうか?」という質問である。
平和というのは考慮すべき数ある目的のうちの一つである。そして平和を追求するための手段は、実際のところ多くあるのだ。平和という目的は追求されるのだが、そのための手段はさまざまな条件の中で使用されるのだ。平和を実現するための手段の中には、まだ国家指導者たちが試したことがなく、評論家にも提言されていないものがある、という事実は、われわれにはにわかには信じがたいものかも知れない。しかしこの問題はあまりにもむずかしいために、逆に「その目的に近づけるようなさまざまな手段の組み合わせがまだたくさん残っている」という可能性を示しているとも言えるのだ。
ではこれは、「国家指導者はその時々の状況にあわせて、次々と政策を試していけばいい」ということになるのだろうか?この疑問に「イエス」と答える人は、分析から切り離された「政策」や、思考とは無関係の「行動」を改善すればいい、と考えていることになる。しかし状況を改善しようとするならば、まずはその状況を作った原因について、ある程度の知識を持っていなければならない。つまり、たしかな平和を実現する方法を説明するためには、まずは戦争の原因についての理解が必要となってくる、ということだ。
本書でこれから追求していくのは、このような戦争の原因について理解である。モーティマ・アドラー(Mortimer Adler)の著書のタイトルを借りれば、われわれのテーマは「戦争と平和をどのように考えればいいのか」(“How to Think about War and Peace” )であり、これ以降の章は、実質的に「政治理論についての論文」という形をとることになる。
本書がなぜこのようなスタイルで書かれたのかと言えば、その理由の一つは、その研究のやり方——前提を検証し、それらがどのような違いを生むのかを繰り返し問いかけること——にあり、またもう一つの理由としては、本書では直接または間接的に多くの政治哲学者たち——聖アウグスティヌス(St., Augustine)、マキャベリ(Machiavelli)、スピノザ(Spinoza)、そしてカント(Kant)、またルソー(Rousseau)にはかなりの紙面を割いて——の考え方を考慮しているからだ。
その他にも、本書では行動科学者、リベラル主義者、そして社会主義者たちの考え方に注目している。しかし彼らの多くは遠い過去に生きていたわけであり、そのような人々の考えが現在のわれわれが直面している、差し迫った困難な問題に対してどのような関連性を持っているというのだろうか?
本書はこの疑問に対する一つの答えとして書かれているのだが、まずここからこのような方向で議論を始めてみたい。
==============
※上記の文の原著に興味をお持ちになった編集者の方は、本ブログ主の方までご連絡下さい。
以下の意見に同意する人は少ないかも知れないが、それでもあえて言わせてもらえば、戦争を無くそうとする試みは(高貴な動機や熱心な追求があったにもかかわらず)、いままで国家間に「束の間の平和」以上のものをもたらすことはなかったのだ。つまりそこにかける努力とその成果や、それに対する欲求と結果の間には、明らかな不均衡があるのだ。
われわれはロシア人たちの間でも平和への願いは強いということを聞くし、これと同じことがアメリカ人にも言えることを信じて疑わない。このようなことを聞くとやや安心できるが、それでも過去の歴史や現在の出来事を見てみると、この願いが「望ましい状況」を作り上げることになるとはとても思えない。
社会科学者というのは、現在の状況がいかに過去と深くつながっていて、しかもどれほどシステムの部分同士が相互依存しあっているかを知っているために、「劇的に良い世界を実現する可能性」については保守的な予測をしがちである。よって、「過去に戦争が起こった場所にこれから平和をもたらすことができるかどうか」という質問に対する答えとしては、どうしても悲観的なものが多くなるのだ。
もしかすると、これは質問そのものが間違っているのかも知れない。なぜなら以下のように質問を変えてみると、答えはそれほど落胆的なものではなくなるからだ。つまり「戦争の発生を減少させ、平和のチャンスを増やす方法は存在するだろうか?」「われわれは未来において、過去よりも平和な状態をもっと増やすことができるのだろうか?」という質問である。
平和というのは考慮すべき数ある目的のうちの一つである。そして平和を追求するための手段は、実際のところ多くあるのだ。平和という目的は追求されるのだが、そのための手段はさまざまな条件の中で使用されるのだ。平和を実現するための手段の中には、まだ国家指導者たちが試したことがなく、評論家にも提言されていないものがある、という事実は、われわれにはにわかには信じがたいものかも知れない。しかしこの問題はあまりにもむずかしいために、逆に「その目的に近づけるようなさまざまな手段の組み合わせがまだたくさん残っている」という可能性を示しているとも言えるのだ。
ではこれは、「国家指導者はその時々の状況にあわせて、次々と政策を試していけばいい」ということになるのだろうか?この疑問に「イエス」と答える人は、分析から切り離された「政策」や、思考とは無関係の「行動」を改善すればいい、と考えていることになる。しかし状況を改善しようとするならば、まずはその状況を作った原因について、ある程度の知識を持っていなければならない。つまり、たしかな平和を実現する方法を説明するためには、まずは戦争の原因についての理解が必要となってくる、ということだ。
本書でこれから追求していくのは、このような戦争の原因について理解である。モーティマ・アドラー(Mortimer Adler)の著書のタイトルを借りれば、われわれのテーマは「戦争と平和をどのように考えればいいのか」(“How to Think about War and Peace” )であり、これ以降の章は、実質的に「政治理論についての論文」という形をとることになる。
本書がなぜこのようなスタイルで書かれたのかと言えば、その理由の一つは、その研究のやり方——前提を検証し、それらがどのような違いを生むのかを繰り返し問いかけること——にあり、またもう一つの理由としては、本書では直接または間接的に多くの政治哲学者たち——聖アウグスティヌス(St., Augustine)、マキャベリ(Machiavelli)、スピノザ(Spinoza)、そしてカント(Kant)、またルソー(Rousseau)にはかなりの紙面を割いて——の考え方を考慮しているからだ。
その他にも、本書では行動科学者、リベラル主義者、そして社会主義者たちの考え方に注目している。しかし彼らの多くは遠い過去に生きていたわけであり、そのような人々の考えが現在のわれわれが直面している、差し迫った困難な問題に対してどのような関連性を持っているというのだろうか?
本書はこの疑問に対する一つの答えとして書かれているのだが、まずここからこのような方向で議論を始めてみたい。
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※上記の文の原著に興味をお持ちになった編集者の方は、本ブログ主の方までご連絡下さい。
by masa_the_man
| 2011-03-01 00:31
| 戦略学の論文

