「日本人は土人だ」論について:その2 |
さて、中東とくにカダフィ大佐やイラクの艦船のスエズ通過の動きなど、いわゆる「地政学リスク」の要因が気になるところですが、例の土人論の話の続きを。
前回までは、西洋人が非西洋人に対して潜在的な差別的感情を持っていて、しかもその学問的な理解の違いから「日本人は土人である」とする某有名評論家の主張に、当時の私が半分納得していた、というところまで書きました。
しかしその半分のところで、どうも納得いかなかった自分があったというのも事実。
そしてその違和感を、私は戦略文化や批判地政学の議論を読み返す中で、「ある分析と、その分析を行った人物の性格」というものが切り離せない存在であることに気づいたことから、ようやく納得することができたわけです。
では実際に、この「日本人は土人である」論の何が私の中で引っかかっていたのかというと、それはこの論者の「日本人は土人である」という一種の構造的な差別感は、実はこの人物の持つ差別感そのものの現れだ、という当たり前の事実です。
どういうことかというと、実はアメリカのような多文化社会で「差別されている、人種差別だ!」と主張する人たちに限って、実は自分も差別主義者だったりするパターンというのがあります。
もちろんこれがすべての人間に当てはまるわけではないのですが、どうも「自分は被害者だ!」と言っている人が、実は別のところでは加害者だった、というパターンもあるわけです。
これを言い換えると、この人物は「日本人は(西洋人からみると)土人だ」という分析を主張した結果、無意識的に「自分は西洋人であり、日本人を差別している側にいる」ということを表明してしまったわけです。
つまりここでも「自分を勘定に入れていない」というロジックが当てはまるわけですな。
よく昔言われていたのが、「自由だ!」と叫ぶやつに限って「不自由な奴」たったりするパターンや、「俺はすごいんだ!」と言いまくっている奴が、実は周囲の評価はメチャ低かったり、というのがあります(この場合は、逆にコンプレックスがあるのを隠す目的もあるのかも知れませんが)。
ところが、私が今まで見てきた優秀な日本人というのは、そのような「土人として見られている日本人」という差別構造があるということをなんとなく認めつつも、その垣根を安々と越えていっている人物が大半なわけです。
この違いは何かというと、彼らはものごとを「ファースト・イメージ」でとらえているからなんですね。
ところがこのような「土人発言」をするような人たちというのは、どうも自分をめぐる状況というものを「サードイメージ」でしか捉えられていないパターンが多いのです。つまり「悪いのは自分じゃなくて、奴ら、もしくは環境だ」みたいな。
時間がないのでここで簡単な結論ですが、「世界はこうなっている!」と分析するのは構わないのですが、実はそういう分析にはその人の「世界観」が如実に反映されるということを忘れてはならない、ということです。