戦略についてのある論文:その12 |
もしそこにあまり失敗の危険性や非生産的な結果、または法外なコストがないとすれば、その戦略的な問題はそれほど困難なものとはならない。ところがもし戦略の選択が「賭け」であるとすれば、後から振り返ってそれを愚かな判断であると決めつけることは全く合理的なこととは言えないのだ。
また、行動の選択というのは、それが狙っている目標によっても左右される。戦略というのはもしその目標が失敗の許されないものであった場合には批判から逃れられることにもなる。
たとえば米政府の報道官が「砂漠の狐作戦」―――一九九八年にイラクに対して四日間行われた空爆――の目的は、サダム・フセインのもつ力を「減少させる」ことにあると宣言している。
もちろんどのような戦闘でもこのような宣言は行われる。しかし戦略というのは、それを実行するかどうかの判断を決める人にとっては、別の価値観から見てもそれが納得できるものかどうかに関係なく、外から見ている人間の目にはその目的が怪しいものとして映ったからといって、それを単純に非難することはできないのだ。
もし国家指導者が即物的な戦いとは反対に道徳的な価値観(たとえば「名誉」など)を優先してしまえば、自己破壊的な行動でさえも「戦略的」であることになってしまう。
これらの条件はそれについての判断を怪しいものにしてしまうと同時に、どのような戦略の選択も非難することができなくなり、「戦略的な行動」というコンセプトは、不確定性や非反証性のものに陥ってしまうのだ。