ストローン氏の話:その2 |
金曜日なのでまたロンドン大学のC教授の授業を
さて、昨日の話の続きを。
ストローン氏の話は、歴史家(戦史家)だけでなく戦略思想家という面もあり、この講演でもうちの先生のような実務家とは違った、なかなか鋭い指摘がいくつかありました。
まず彼が指摘したのは、「戦略」(strategy)というという言葉が近代になってから使われ始めたものであるということ。
そしてこれを一番はじめに注目して論じたのは、やはりクラウゼヴィッツということになります。これは当たり前ですな。
そして現代に近づくにしたがってますます重要になってきたのは、この戦略と政策(ポリシー)についての関係です。とくにこの傾向は核兵器が出てきた1945年以降はとくに強まったと。
また、近代になって「戦略」というものがどういう様相を帯びてきたかというと、「平時に準備をして、戦争の時のチャンス(偶然性)というものをあらかじめ少なくするように計画すること」となります。
それからストローン氏は、近代の戦略には三つの機能があると主張します。
1、チャンスを自分に都合よく利用することを狙う機能
2、戦争の遂行における偶発的な出来事のインパクトをある程度予測しておくための機能
3、長期的な視点を維持して狙いを定めておくための機能
また、ここで興味深かったのが彼の「有名な戦略思想家はなぜ生まれたのか」という分析です。
彼は戦略家としての教育は受けていないのに戦略思想について鋭いコメントを残している人物として、フランスの二人の有名な知識人の名前を挙げました。ピエール・ガロアとレイモン・アロンです。
まずアロンは社会学者なんですが、クラウゼヴィッツについての素晴らしい分析(『戦争を考える-クラウゼヴィッツと現代の戦略』)を書いておりまして、ロンドン大学のC教授は、先日このアロンの著作を「クラウゼヴィッツについて書かれたものではベストだ」と言っていたほど。
一方のガロアは空軍にエンジニアとして務めた職業軍人だったわけですが、後に「フランスの核兵器の父」と呼ばれるようになった人物ですね。
では彼らがなぜそのような素晴らしい戦略思想的な分析をすることができたのかというと、ストローン氏の言葉でいえば「戦略の対話(ダイアローグ)があったからだ」とうことになります。
たとえば孫子は春秋戦国時代、マキャベリはイタリアの弱小都市国家の悲劇的な運命、クラウゼヴィッツはナポレオン軍の脅威、そして『戦略の思想家たち』を編集したエドワード・ミード・アールはナチス・ドイツという脅威に直面していたからです。
アロンとガロアもこの例にもれず、彼らは1940年のナチス・ドイツによるパリ陥落を目撃してイギリスに亡命してからフランスの亡命政府の発行する新聞に時事評論を書き、これが彼らの「戦略対話」の原点となったとストローン氏は見ております。
そういえば戦後のアメリカでもベトナム戦争からハリー・サマーズの「戦略論」(On Strategy)という本が生まれましたし、最近の「テロとの戦争」では、なんといってもデヴィッド・キルカレンの「偶発的なゲリラ」(The Accidental Guerrilla)がそれですね。
ストローン氏はこのキルカレンの新刊をけっこう評価しているようで、その理由を、彼がこの「テロとの戦い」を実体験していて、それが理論との対話につながっているからだ、としておりました。
ここまで書いて時間切れです。続きはまた明日