「パワー」の研究:その2 |
昨日のことですが、麻生首相を見てきました。自分としては現役の国家のリーダーを見るのは初めてです。
パッとみた感じではやはりそれほどオーラを感じなかったのですが、それでも現役首相なりのカリスマみたいなものはやはり感じました。
かなり遠くからでしたが、とりあえず写真をとってきましたのでそのうちここに載せておきます。
さて、パワーの話の続きを。
「パワーには三つの面がある」ということで、その内の二つについては以前のエントリーで簡単に書きましたが、肝心の三つ目についての説明はまだでした。
ということでその三つ目なんですが、これは前の二つのパワーの説明がアクターそのものに帰属したものであったのに対して、パワーは他のプレイヤーたちが形成している状況そのものによって決定されるというものです。
そしてこれを決定するのが「構造」(structure)もしくは社会(society)というものなんですね。
ところがこれの問題点は、
「一体誰が本当のパワー/決定力/影響力を持っているの?」
ということにつながってくるところなんです。
たとえばパワーに関する前の二つ考え方ですと、パワーはあるアクターが「持っているもの」であったり、もしくは二つのアクターの間にある「関係」で決まっていたわけで、これは究極的にいえば「個々のアクターのパワーにそれなりの発言力がある」という前提が生まれてくるわけです。
ところが「社会」や「構造」にパワーが決定されるという話になると、
「個々のアクターの持っているパワーはあまり関係がないのでは?」
ということになってしまうわけです。
これの一例が、日本の持つパワーに関する議論です。
たとえば最近流行の「米中によるG2同盟」のような(誤った)概念ですが、日本で報道されているものの思想の背景にあるのは
「世界政治は米中によって決定され、日本には発言力がない」
という恐れであります。これはつまり
「パワーのない日本は、いくらがんばっても米中が関係を強化してしまったら意味がない」
という考えにつながってくるわけです。
一連の日本核武装論なんかもこの文脈で語られることが多いわけで、
「米中二国に発言力を持つためには核武装が必要だ」
ということになるわけです。
この続きはまた。