コックスの「理論」論 |
さて、自分の論文と来月のスパイクマン(スピークマン)についての講演会の準備のために、先週あたりからリアリズムの理論をおさらいしておりまして、そこで気がついたことを少しここにメモっておきます。
リアリズム、特にネオリアリズムの理論を英米系の大学で少しかじったことのある方々ならご存知かも知れませんが、理論書としてはかなりスタンダード(というか古典)な部類に入るものとして
Robert O. Keohane (ed.), Neorealism and Its Critics, (NY: Columimbia University Press, 1986)
という本があります。
これはいわゆる「ネオネオ論争」の初期の集大成とでも言える論文集でして、ウォルツやギルピンなどがリアリズムを擁護し、それに対して批判的なラギーやアシュレイなどが挑戦を挑むという形になっております。
しかもこれはウォルツの古典『国際政治の理論』(一九七九年:未邦訳)の中から何章か抜き出して書かれているし、しかも批判に対するウォルツの反論も載っているというので、お金のないIR系の学生には「一粒で二度おいしい」本として有名なわけです(ウォルツの原書の方は異様に高いですから)。
この中では「セオリーとは何か」という根本的な問いかけが論じられているんですが、その中で私がいつも感心するのはウォルツの説明よりも、このウォルツを批判したロバート・コックス(Robert W. Cox)が第六章で書いた論文の中の有名な一節です。
コックスはまず社会科学で使われるセオリー(theory)というものは一体どういうものなのかということを論じるわけでして、これを彼は
「セオリーとは、常に誰かのための、何かの目的のためのものだ」
(Theory is always for someone, and for some purpose.) p.207
と書いております。このフレーズではIRの理論業界(?)では結構有名なフレーズです。
と、ここまで書いて時間がなくなってしまいましたので、続きはまた後ほど。
また、この辺については講演会のほうで徹底的に分析していくつもりですので、興味のあるかたはこちらまで(笑