戦略学の本のイントロ:その1 |
この本を翻訳するという企画自体はボツになったのですが、もったいないのでここに試訳を載せておきます。みなさんの参考まで。
どの本かって?そんな野暮なことはあえて聞かないでください(苦笑
===
イントロダクション
本というのは、その著者や国政担当者のような人々が考えている希望、恐怖、問題などによって形成される、ある特定の時代背景を反映していることが多い。この傾向は特に戦略や安全保障学、そして公共政策などで顕著だ。なぜならこれらの現代的な問題はこの分野の著者たちにとっては特に重要な意味を持つからだ。また、我々の努力は現在の脅威とチャンスを反映したものだといえる。たとえば我々が二〇〇〇年の九月に本書の初版を発表した時には、戦略の古典から獲得した洞察を使って、戦略と戦略学が引き続き重要であるということや、現代の問題を分析できるということを証明する教科書を作ることを考えていた。つまり我々はそれから一年もたたないうちにペンタゴンと世界貿易センターに対するアルカイダの攻撃によって「新世界秩序」が崩壊させられることになるとは思っても見なかったのだ。アフガニスタンやイラクでの戦争、二〇〇四年のマドリッドや二〇〇五年のロンドンでのテロリストによる爆破事件、そして北朝鮮やイラクへの核兵器の拡散の疑いなどは、現在の対外・防衛政策の研究者や実践者たちの考えの中から戦略の必要性に対する疑いを一掃させることになったのだ。二〇〇五年の九月に我々が本書の改訂版について話し合うために再び集結した時に皆が感じていたのは、我々が国家・国際安全保障に対して本物の脅威に直面しているということであり、これらの脅威は戦略の復活を要求していたのだ。
我々にとって今ハッキリしているのは、戦略学への興味は周期的なものであり、時代を反映するということだ。戦略学は、ハルマゲドンがすぐ目前に迫っているような核兵器の時代に、政治リーダーたちや政府高官、そして学者たちが、どのようにして生き残りを図るのかという安全保障問題に必死で取り組んでいた、冷戦の初期に登場してきた。融和政策や集団安全保障という「ユートピア」的なアイディアが平和を約束できずに崩壊してしまった一九三〇年代の経験を踏まえて、冷戦時代に一般的だった考え方は、ある種の「リアリズム」(現実主義)であった。この学派では、「アナーキー」や「絶え間ない競争」などの言葉で特徴づけられる世界の中で、国家は自国の利益を確保するためにパワーを使わざるを得ない、という風に考えられていた。ところが核時代のリアリストたちにとって、パワーは国家の利益の増進のために使われなければならず、それと同時に当事者の国家だけでなく、世界の文明全体を破壊することにつながる紛争を避けなければならないのだ。この状況により、一九五〇年代から八〇年代にかけて戦略学(そして国際関係論)の文献を支配した、抑止、制限戦争、そして軍備制限などに関する理論の勃興につながった。この分野において、ハーマン・カーンやバーナード・ブロディ、ヘンリー・キッシンジャー、アルバート・ウォルステッター、そしてトマス・シェリングらの文献は古典となった。
では、戦略学の文献に特有のカギとなる前提や仮定などが特定の安全保障政策の推進につながったのだろうか?それとも政策そのものが文献のテーマを決定したのだろうか?この問いかけの答えはまだ議論が分かれるところだ。現実の問題が文献のテーマを決定するという人もいるし、文献のテーマこそがある特定の世界の見方を作り出して軍事力の行使を正統化するという人もいる。おそらく実際のところは、理論と実践が互いに補完したり強化しあったりする関係にあり、これらのプロセスが繰り返されているということが言えるだろう。
戦略学の文献の最も強い部分は、「軍事力が(「ユートピア的」な理想が存在するにもかかわらず)国家政策の一つの手段である」という世界の厳しい現実を教えているからであろう。ところが弱点として挙げられるのは、本質的に「現在の世界はこれ以上よい状態に変えていくことはできない」とするリアリストの考え方から抜け出せないことだ。リアリストはその理論や実践の面から考えて、アメリカとソ連との間の重大な紛争という形で行われていた「冷戦」が永続的に続くものだと考えていたのだ。激的な状況の変化というのは、核兵器によるハルマゲドンの恐怖を考えればそれを想定することさえはばかれる状態だったし、それに対して行動をするのはあまりにも危険が伴うものだったのだ。
どちらかといえば平和的なソ連の崩壊により、リアリズムは疑いの目で見られるようになり、政策サークルの周辺では武装解除の主張者やユートピア的な思考を持つ人々のアイディアや政策が大きな発言力を持つようになってきた。一九九〇年代は情報革命が消費者・ビジネス文化に入り込んだ、「平和の配当」及び「ドットコム・マニア」の時代だった。国家や軍事力の行使ばかりに没頭している戦略家たちは、新世代の「ユートピア」研究者たちからは、むしろ国際安全保障の問題の一部として見られるようになったのだ。つまり戦略家は「恐竜」になったのであり、世界政治の中で明らかに重要性を失いつつある要因を認めずに「古い考え方」にしがみついている、と考えられるようになったのだ。安全保障関連の問題の中でも特に軍事面を強調する伝統的な考え方は、そのコンセプトをさらに広範囲かつ深く研究されるべきだと主張する学者たちによって、さらに批判にさらされるようになった。このような見方に従えば、「安全保障」という概念にはいままで無視されてきた、政治、経済、社会、そして環境などの面があることになる。ある学者たちによれば「安全保障」という概念は政治のエリートたちにとって優先的な政策をすすめたい場合や、特定の政策、政府組織、そして軍事計画などに必要な財源などを確保するために使う概念であることになる。またある学者たちの見方によれば、政府の政策というのは軍事関連企業や政府の役人たちによって決定されるのであり、軍隊のメンバーたちも「戦争を継続」させて自身のキャリアや生活を守ることに大きな利益を持っていることになるのだ。
一九九〇年代中頃になると、このような伝統的なリアリストに対する批判は主流派になってきた。安全保障研究は、学問として戦略学をしのぐようになったのだ。研究者たちは「安全保障」の性質そのものに注目するようになり、個人レベル、社会レベル、そしてグローバルレベルのような、冷戦時代の国家中心的な軍事中心なものよりも大きな安全保障がどのように実現できるのかを考えるようになったのだ。安全保障学は過去の戦略学よりも広範囲な理論を扱っているのだが、それでも彼らのほとんどの文献、とくにポスト・ポジティヴィスト派のものには、強い規範的(リアリストたちが「ユートピアン」と批判するような)な面が存在する。冷戦の終結は、リアリズム(及び戦略学の文献)の保守的な部分に対する根本的な挑戦となった。平和的な変化はいまや現実となったのであり、多くの人々にとって軍事力は安全保障における圧倒的な必要不可欠なものではなくなったのだ。東西関係で存在していた「恐怖のバランス」は(戦略学の文献によって示されていた理論通りに)緩和されたのではなく、むしろ新しく平和的な世界の到来を予感させるものへと変化したのだ。
冷戦直後の幸福感や、その直後に書かれた論文などは時代を反映したものだが、二十一世紀に近づく間にも、平和の台頭、もしくはフランシス・フクヤマが言ったような「歴史の終わり」(つまり大規模な紛争の終わり)は時期尚早であることを告げるような兆候は現れていた。第一次湾岸戦争、ユーゴスラビアの解体にともなう紛争、そしてアフリカの部族間抗争などは、現在の世界でも軍事力が引き続き重要であることをハッキリと示していた。本書の初版が刊行されたのは、二〇〇一年九月十一日に世界貿易センタービルとペンタゴンが攻撃された事件が起こった、まさにこのような時代だった。初版の刊行された時期には、「安全保障分野の文献で非軍事の分野が強調されすぎている」という雰囲気が学界でも高まりつつあったのだ。初版で行われていた議論(もちろんこれらはその当時の時代にあったものばかりだったが)の中には、悲惨だが今後も関連性を持つ「軍事力の重要性」という世界政治の現実を直視した文献や研究をさらに増やすべきである、ということが主張されていた。したがって本書は時代の産物なのであり、二〇〇一年九月十一日の朝にこの時代の雰囲気は変わったのだ。
初版で行われていた議論は現在でも十分通用するものばかりだが、この第二版では現代世界における軍事力の役割や、過去十年の間に起こった変化などを考慮に入れた研究が含まれている。たとえば本書には、アフガニスタンやイラクで最近行われた紛争や、これらの紛争から得られる教訓は何かという最新の議論についての分析などが含まれている。また、我々は電子・コンピューターシステムでの激的な革新のおかげで、軍事や未来の戦争における「革命」は本当に起こったのかという議論も検討している。また、本書では世界政治の構造変化が戦略面で暗示していることや、一極世界におけるアメリカの軍事力の役割についても注目している。大きな概念における面では、この第二版は冷戦時代の戦略学で最も重要だった平和と安全保障についての理論は現在でも重要性を持つものなのかどうかを分析しているという点で、初版からかなり進んでいるといえる。またこの第二版では、九・一一の重要性やテロとの戦争、そして国家だけではなく非政府組織による大量破壊兵器の拡散の可能性などがさらに強調されている。
では今後の各章を理解を深めるための準備として、このイントロダクションでは、1)戦略学とは何か、2)戦略学に対してどのような批判が行われているのか、そして、3)戦略学と安全保障学の関係はどのようなものなのか、という三つの質問にそれぞれ答えて行くことにしよう。