ではもし「処方の証明」という問題についての経験面での解決法がない場合には、他にどのような解決法を使えばいいのだろうか?
「処方」というのは、実は「分析」というものと論理的に切り離すことができないものだ。したがって、「世界全体の平和」を実現するためのあらゆる「処方」というのは、われわれの国際関係についての三つのイメージのうちの一つか、もしくはそれらの組み合わせたものと関係してくることになる。
各イメージの分析の仕方を理解できると、処方の許容/拒否について、さらに二つの可能性を加えることになる。
(1)誤った分析をもとにした処方は望ましい結果を生み出すことはない。「人間そのものを処方された方法で改善すれば、平和の推進につながる」という想定は、つまり「国際関係のファースト・イメージが正しい」というのは、さらに別の想定にのっとったものだ。そうなると、後者の想定は、前者の想定よりもまず先に検証されるべきことになる。
(2)「処方」というのは、その「分析」との論理的なつながりがなければ受け入れられない。たとえば扁桃腺炎にかかった人にいくら素晴らしい盲腸の手術を行っても意味はないのと同じで、
もし国家間の暴力は人間のもつ悪い性質が原因で発生するならば、国内の改革をいくら行っても意味はないのだ。そして、もし国家間の暴力が国際的なアナーキーの産物であったとすれば、いくら個人を改革してもほとんど意味はないことになる。これは、ある人間の予想が、他の人間の処方を混乱させてしまうのと一緒だ。
もしこれらの「イメージ」の妥当性が証明されれば、「処方」と「イメージ」の間にある決定的なつながりのおかげで、その「処方」の妥当性を検証できることになる。ところが、そこにはこの事態をさらに複雑化させている要素がある。
われわれの三つのイメージ(そのうちのたった一つだけによるものではなく)の組み合わせは、国際関係の正確な理解のために必要となるのは確かであろう。おそらくわれわれは、患者の病気が扁桃腺炎と盲腸のどちらかだという風に、単純に判断できるような状況にはないのだ。なぜなら両方とも炎症を起こしているかも知れないし、またそのどちらか一方を取り除いてしまうと、患者の命は危険にさられてしまうからだ。
これをいいかえれば、
一つの原因によると思われる結果を正しく理解できるかどうかというのは、実は他の原因との関係を理解できるかどうかにかかっている、ということだ。原因の相互関係(の可能性)というのは、さまざまな処方の効果の可能性を推測する難しさを、さらに難しくしてしまうものなのだ。 ではその効果を判断する基準は、一体何なのだろうか?
ここで
「“悪い”国家が戦争を起こし、“良い”国家は互いに仲良く平和に生きるものだ、したがってわれわれは、国家を処方されたパターンと一致(つまり良い国家に)させなければならない」
という議論を再び考えてみよう。これを正しく考えるためには、以下のような、いくつかの質問を考える必要がある。
(1)ここでの最終提案(国家を、処方されたパターンと一致させること)は、本当に実行できるものなのだろうか?もしできるとすれば、どのように行うのか?
(2)処方とイメージと間には論理的な一貫性はあるのか?これをいいかえれば、その処方は、その特定された原因に正しく対処しているのか?
(3)ここで使われている「イメージ」は本当に適切なものなのだろうか?もしくは、分析している人間がただ単に最も目立つ原因、もしくは最も操作されやすいものに目を奪われていて、それ以外の同等、もしくはそれよりも重要な原因を無視しているだけではないのだろうか?
(4)この処方を行おうとすれば、その他の目標にどのような影響を与えるだろうか?
この最後の質問は重要である。なぜなら、
単なる「平和」というのは、最も平和主義的な人間や国家にとっても「唯一の目標」となるわけではないからだ。
たとえばある人は「世界政府」と「恒久平和」を全く同じものとして考えているかもしれないが、その一方で、
「世界政府」は「世界独裁主義」につながるから、「恒久平和」の見込みのある世界政府よりも、「恒久的な戦争」の危険のある「国民国家システム」のほうがマシだ、と考える人も出てくるのだ。
われわれはここで提起されたような質問に対して答えなければならないのであり、このためにはまず各イメージを厳密に検証し、それからイメージの相互関係を考慮すべきであろう。
これを行うために、本書の第二章、第四章、第六章では、それぞれ「ファースト」、「セカンド」、そして「サード」という順番で、主に政治哲学の伝統に沿いながら、各イメージの基本的な分析を行っている。
第三章、第五章、第七章では、各イメージのさらなる説明や例証など行っている。そして第八章では各イメージの相互関係についての簡潔な議論を行っており、同時に本書の結論が述べられる。
(了)