今日の横浜北部は、昨日よりもさらに春らしくなって日中は汗ばむほどでした。
さて、昨日の続きでルトワックの大戦略論の話を。
彼の学者としてのデビュー作となる4作目の『
ローマ帝国の大戦略』(The Grand Strategy of the Roman Empire)ですが、この本は元になった博士号論文とは違って、大戦略という概念にかなり重心を置いた構成となりました。
しかもこの「大戦略」の概念は、平時における軍事力とのつながりを強調している点ではミード=アールのものと似ているのですが、当然ながら出てきた時代背景が違います。
つまりミード=アールの方は、第二次世界大戦前後の「総力戦」の背景がちらつくものであり、その一方でルトワックのそれは冷戦期、しかもベトナム戦争後のアメリカの軍事戦略を意識したものでありました。
また、両者は大戦略における「対外政策」(foreign policy:私は“外交政策”という言葉は不正確だと考えております)を考慮している点では同じなのですが、ともに共通するのは、それに対応する国内的な事情にも注目するように説いている点です。
ただしエドワード・ミード=アールのそれは、国家が総力戦のためにつぎ込める
工業生産力の高さに注目していたのに対して(
スパイクマンもまさにこれ)、ルトワックはローマの大戦略を通じて、帝国のマネージメントにおける道路や(松明や水を使った)通信システムなど、
軍事力を効率よく運用するためのインフラや能力の方に注目しております。
もちろんルトワックのローマ帝国を参考とした大戦略論は、そのようなインフラ整備を指示したような文献が提示しされていない、本当に大戦略のアイディアがあったのかという点から、ローマ史の専門家たちからは猛批判されました。
それでも「歴史的なインフラの設備の状況をみれば、ローマに大戦略があったのだ」という彼の主張には、その後の反論を見ても一点のゆらぎもありません
この本で強調されたのは、外交、軍の編成、道路網、要塞などだったわけですが、これは明らかに出版当時のアメリカの最大の関心である、NATOの欧州正面における、対ソ戦を意識したものでした。
ここでまた、その戦略論が出てきた「コンテクスト」というものがカギとなってくるわけですね。
続いてルトワックは、80年代に入ると、私の「
戦略の階層」で言うところの「
作戦レベル」へとその関心を移していくわけですが、この話の続きはまた明日。