今日の横浜北部もよく晴れまして、気持ちのよい一日でしたね。
さて、くどいようですがまた大戦略の話を。
一般的に「大戦略」(grand strategy)という文献を読めば、やはり基礎文献として上がってくるのが、リデルハートの『
戦略論』であることはすでに述べた通りです。
ただし彼の大戦略論、自身が身をもって体験した第一次世界大戦の戦場における強烈な経験もあいまって、どちらかといえば彼の大戦略の定義は「良い軍事戦略を導くためのもの」という感覚が強く、「戦争の遂行を指導するための政策と同義語だ」と述べております。
つまり彼の大戦略は、戦争と戦略に直接つながっていたわけです。これはまさに
孫子の考え方とそっくり。
ところが1930年代に入ると、戦争の遂行のための高次概念としての「大戦略」には拡大した意味がつきまとうようになり、戦争と平和の間の境界線が薄まってまいります。
それもそのはず、この当時は前回の(第一次)世界大戦を終えてから、欧州の列強の間では平時の外交面でも、実に活発な戦略的な動きが見られたからです。
つまり各国は、それまで戦争のときにだけ使えばよかった(軍事)戦略思考を、平時の外交的な動きにおいても活用する必要に、状況的に仕方なく迫られてしまったのです。
それに気づいた論者が、アメリカで主に40年代に活躍したプリンストン大学の教授である
エドワード・ミード=アールであり、彼はこの大戦略における戦争と平和の区別の無意味さを説明するために、
「フランス政府は過去300年以上にわたって、中央ヨーロッパを弱く維持し、自国の国境を自然な地理と合致したものとなるような政策、つまり大戦略を追求している」
と述べているのです。
そうなると「大戦略」と「対外政策」の違いは何か?ということがわれわれとしては気になるわけですが、どうやらミード=アールは「安全保障」という要素が絡むかどうかがその違いにあったと考えていたようです。
まとめて言いますと、軍事戦略と直結した定義であったリデルハートの定義から、ミード=アールのそれは戦時と平時の枠組みを超えた幅広いものとなっていったのです。
長くなりましたので、この話の続きはまた。
(香港島の摩天楼)