マクマスター中将の「戦争論」 |
さて、トランプ政権の国家安全保障アドバイザーに新しく就任したマクマスター中将の過去の寄稿論文がNYタイムズ紙にありましたので、その記事の要約を。
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「簡単な戦争」というラリった幻想(The Pipe Dream)
By H. R. マクマスター
JULY 20, 2013
小説家のソール・ベローは、「幻想への欲求が深い場合、素晴らしい知性が無知のためにつぎ込まれることもある」と記したことがある。
われわれはイラクとアフガニスタンの戦争から得た教訓を考える際に、このベローの言葉を肝に銘じておくべきであろう。なぜならこの教訓は、将来の軍事計画の際に極めて重要となってくるからだ。
われわれの持つ、過去の経験からの学びの成績は、惨憺たるものだ。この理由の一つは、われわれが歴史からの学びを、将来の戦争を簡単なものとして考えたり、過去のものとは根本的に違うものだという希望的観測の思考の結果として、単純に応用したり、それらを全部無視したりするからだ。
われわれは2001年9月11日のテロ攻撃以前にそのような考えにふけっており、多くの人々は「離れて安全な距離から敵のターゲットに対して精密攻撃を行える能力を持ったテクノロジー面で優位にある小規模の米軍の部隊は、短期的に勝利を得ることができる」という単なる思いつきを受け入れていたのだ。
新しいテクノロジーが戦争の新時代の幕開けとなったという信念に基づいたこのような国防理論は、その後にアフガニスタンとイラクでの戦争に応用された。そしてこのような考えは、その両戦争についての理解を曇らせることになり、本当に効果的な戦略の形成を遅らせることになってしまったのだ。
今日では予算の制約や、新たな紛争を回避したいという欲によって、「台頭するテクノロジー(もしくは地政学的シフト)が戦いの新たな時代を導き出した」という議論が復活している。そのような理論家の中には、われわれがアフガニスタンやイラクで直面している困難というのはかなりの例外であると論じる人もいるほどだ。
ところがこれらは例外ではない。新たな希望的観測に対する最高の予防策は、戦争についての古くから認められる三つの真実や、アフガニスタンやイラクでのわれわれの経験がその重要性をいかにそれを立証したのかを理解することにある。
第一の真実は「戦争は政治的である」というものだ。19世紀のプロイセンの戦争哲学者であるカール・フォン・クラウゼヴィッツは「戦争を何か自律したようなものとしてとらえてはならないのであり、それは常に政策のツールなのだ」と述べている。
アフガニスタンやイラクに至るまでの期間にアメリカでの国防についての考えは、その他のパワーを連携させて政治的な目標を達成・維持するための権力のツールの中の一つでしかないにもかかわらず、軍事作戦の成功そのものを目的としてとらえるようなアイディアによって突き動かされてきたのだ。
「軍事における革命」(RMA)として知られる理論の信奉者たちは、1991年の湾岸戦争におけるアメリカ主導の多国籍軍による一方的な勝利をあやまって解釈し、「軍事技術のさらなる進歩はいかなる敵に対しても圧倒的な状態を維持できるだろう」と予測したのだ。
彼らによれば、これによって潜在的な敵もアメリカの権益に挑戦してこようとは思わなくなるはずであった。
この理論は傲慢であった。ところがそれは容認された考えとなり、未熟な戦争計画が予期しない政治問題に直面したアフガニスタンやイラクの紛争において、われわれを苦しめることになったのだ。
アフガニスタンでは代理的な戦力がタリバン政府の打倒を助けてくれたが、そのような民兵やリーダーたちの多くは個人的な権益や政治課題を追求したおかげで「アフガニスタン」という国家の再建の努力を台無しにしてしまった。
2003年から2007年までのイラクにおける同盟国の戦略では、スンニ派のアラブ系やトルクメンをはじめとする少数派の民族の抱える政治面での不満に応えられなかった。この両戦争では、暴徒やテロ集団がこのような不満につけ込んで、新たな参加者を募ったり、住民の一部から支持を獲得している。
時間の経過とともに民族・部族・宗派ごとの分裂が強まることによって新たな暴力がはじまり、イラクとアフガニスタンの国家がそれぞれ弱まり、反乱側を強化し、住民の苦悩は激増している。
ここでの教訓は、戦争をその政治的な性質から分離するような概念、とりわけテクノロジーを通じて迅速かつ安価な勝利を約束するような概念については疑ってかかれ、というものだ。
第二の真実は、「戦争が人間的なものである」ということだ。人間はギリシャの歴史家ツキュディデスがおよそ2,500年前に指摘した根本的な動機に突き動かされて戦っているのであり、これは今日でも変わらない。
その動機とは、恐怖、名誉、利益である。
ところがその二つの戦争に至るまでの期間に、われわれの国防について考えでは戦争における人間的な面や政治的な面を軽視してきたのだ。
たしかにタリバンやサダム・フセインの体制は戦闘作戦によって崩壊さることができたが、アフガニスタンやイラクの近代史についての知識の欠如のおかげで、アメリカは初期に獲得した戦場での優位を継続的な安全につなげることができなかった。
時間の経過とともに米軍は、アフガニスタンやイラクの市民の間にある恐怖や利益、そして名誉についての感覚を理解することが、暴力のサイクルを断ち切り、過激主義者を孤立化させるためにコミュニティーを政治的に協調するよう促すことにつながると学んだのである。
市民の安全の確保に向けた努力のおかげで、2007年以降のイラクや、2010年以降のアフガニスタンでは、少数派民族の恐怖を和らげ、各集団の名誉を尊重し、彼らに「暴力ではなく政治を通じてそれぞれの権益を守ったり強化したりすることができる」と確信させたのである。
ここで得た苦い教訓は、防衛概念には戦争の人間的な面を構成する、社会、経済、そして歴史的な要因を考慮に入れなければならない、ということだ。
第三の真実は「戦争は不確実なものであり、その理由はまさにそれが政治的で人間的なものである」ということだ。
RMAの理論における支配的な前提とは、「情報が勝利の最大のカギを握る」というところにある。また、「ネットワーク中心の戦い」(NCW)や「迅速で決定的な作戦」(RDO)、「衝撃と畏怖」、そして「フルスペクトラム・ドミナンス」などが暗示しているのは、ほぼ完璧なインテリジェンスによって精密軍事作戦が可能となり、それが成功への近道である、ということだ。
ところがアフガニスタンやイラクでは、敵の順応やイニシアチブには対応できなかった。作戦開始当初は紛争によって順応してきた敵と対処するだけの数をもたなかった米軍は、安全を維持するのにも苦労していた。
ここでの教訓は、イラクとアフガニスタンの戦争は他の戦争と同じように「意志のぶつかり合い」であり、このダイナミックな動きによって将来の出来事の予測が不可能となった、ということだ。
幸運なことに、米軍はアフガニスタンとイラクで順応することができた。たとえば2005年のニネヴェ州では敵側が現地の宗派同士を争わせて内戦状態にしていた。
タル・アファルという町では、米軍の機甲連隊が最初に複雑な環境を理解しようとしており、同時に地元のイラクの治安部隊や包囲された住民たちと信頼構築に向けての働きかけを行った。特殊部隊とイラク兵とともに、わが軍の部隊は、敵と戦うだけでなく、住民の安全な環境の構築や、集団間の紛争解決を推進していた。
タル・アファルの市長であるナジム・アジド・アルジボウリが後に述べたように、「われわれの町はアブ・ムサブ・ザルカウィ掃討のための基地となっていたのであり、住民は恐怖から自宅に引きこもり、町中ではいつ殺されてもおかしくなかった」のである。
ところが米軍が来てからというもの、「テロリストという町に潜むがん細胞に対して正確な外科手術を行ったおかげで、町には不必要な被害は生じなかった」というのだ。
ここでわれわれが学んだのは、米軍は複雑で不確実な環境の中で、戦争の政治・人間的な面に対処しなければならない、ということだ。アフガニスタンやイラクのような戦争は、遠隔操作で戦えるようなものではないのだ。
予算面での制約やテクノロジーへの相変わらずの幻想によって、何人かの人間は「これまでのような戦争が終わりを告げた」と宣言している。
もちろん新たなテクノロジーというのは、軍事的な効果という面では極めて重要であるが、そのようなテクノロジーだけに頼ろうとする概念(精密攻撃や急襲やその他の敵のターゲティングへの手段)は、「軍事活動」と「戦時に目指している目標への進展」を混同させてしまうのだ。
われわれは、戦略と軍事能力を同等視してはならないのである。
戦争においてわれわれが目指すべき狙いの達成のためには、軍には味方になってくれる人々を安心させ、住民を守り、見つけにくい敵を見つけて倒すことまでが要求される。
将来の戦争では、当然ながら、現在のものとは異なる問題を浮き上がらせるだろうし、異なる条件を課してくるだろう。ところが戦争そのものは、古代から変わらない重要な真実を示し続けるはずだ。
国防費は削減の圧力下にあるが、明快な思考にカネはかからない。将来の戦争の問題を自分たちの望むような形で定義したり、それによって自分たちの抱いた幻想を元にした国防面の脆弱性をさらしてしまうようなことは、われわれがもっともやってはいけないことである。
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戦争の現実は変わらないからそれを直視せよ、新しいテクノロジーの登場に騙されるな、ということですね。
何度もいいますが、これは戦略論の「保守派」の議論としては極めてスタンダードな意見です。
もちろんこの議論のベースにあるのは、「テクノロジーの進歩はすごいが、それでも戦争の本質(the nature of war)は変わらない。なぜなら人間の本性(the human nature)は変わらない」という認識です。
これを論証するのにあたって、このような「保守派」たちはクラウゼヴィッツやツキュディデスの議論を使うわけですが、それによって戦争の「易不易」の、いわば「不易」の部分を強調するわけです。
このマクマスターやマティスのような人々の考えの究極のものが、おそらく拙訳の『現代の戦略』におけるコリン・グレイのものでしょう。
グレイの場合は戦争や戦略の「易不易」の部分を説明するのに、クラウゼヴィッツの『戦争論』の中から「文法」(易)と「論理」(不易)という概念を引っ張ってくるわけですが、このような概念の使い方は、残念ながら日本の戦略に関する議論ではまったく取り上げられておりません。
こういう議論をみると、あらためてクラウゼヴィッツの考えというのは日本では「過去のもの」であったとしても、現実に戦争を行っている国々にとっては「活きた学問」として活用されていることがよくわかります。
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