新刊:B・ホイザー『クラウゼヴィッツの正しい読み方』 |
すでに何度もここでお知らせしているのでご存知かもしれませんが、その内容は、クラウゼヴィッツの戦争論がどのように読まれてきたのか、そしてどのように読むべきなのかについて、さまざまな文献を比較検討しながら研究したものです。
もちろん体裁は「入門書」なのですが、どちらかといえば「総論」に近いかもしれません。
「日本語版へのまえがき」として原著者から日本の読者向けに一文いただいているので、今回の発売記念としてここで特別に公開しておきます。
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本書は、クラウゼヴィッツが生きている間に自ら経験した戦争(フランス革命戦争とナポレオン戦争)から得た教訓についての研究書であるが、ここで明らかになったのは、彼の考えが二つの段階を経ているということだ。
一つ目は、これらの戦争が戦いの形を永久に変えてしまい、将来のすべての戦争はこのパターンを追従することになる、と考えたということだ。
ところが後に、彼はこの間違いに気づき、非常に限定的なものから全面戦争、つまり非常に抑制的なものから無制限な暴力、あるいは小さな狙いから無制限な狙いまで、戦いの種類には移り変わるスケールの上のもののように、実にさまざまなタイプのものがあると考えるようになった。
彼の考えをまとめたものが『戦争論』だが、この著作は彼が死んだ時にはまだ修正中であり、結果としてこの本は矛盾だらけの内容となってしまったのである。
ところがこのような欠点に気づかず、クラウゼヴィッツのいくつかの偉大なひらめきに圧倒された多くの読者たちは、『戦争論』に書かれている内容を無批判に受け取ってしまった。彼らはまだ議論しつくされていない文章を部分的に取り出したことに気づかずに、自分たちに都合の良い教訓を引き出したのだ。
端的にいえば、彼らが得た教訓は間違っていたのであり、その間違いが致命的であったともいえる。そしてこのような間違いは、互いに利益となる「安定的な講和の追究」というクラウゼヴィッツ自身も見逃していた考えを、「すべての戦争は軍事的勝利の追究、つまり我が意志を敵に屈服せしめるもの」という考えへと変化させてしまった。
したがって、クラウゼヴィッツを読んだ多くの人々に見られる第一の特徴は、彼の本に示された教訓を無視したということではなく、むしろ誤った教訓を得たということになる。
第二の特徴は、彼らの全員(われわれも含めて)がその本(というよりもすべての本)を、自分たちの文化のレンズを通して読んだということだ。
彼らは『戦争論』の中に自分たちの好みのフレーズやアイディアを見つけたのだが、これは彼らが生きていた時代やその雰囲気、それにその当時に置かれていた環境によって影響を受けていたということだ。
彼らは、クラウゼヴィッツがそれを書いていた時代の言葉の意味ではなく、その後に含まれるようになった意味を受け取るようになり、本来の微妙な表現や、その矛盾や限定的な議論を無視したのである。
したがって、クラウゼヴィッツの解釈の歴史は、政治思想や政治文化の発展の歴史が凝縮されたものであり、そのテーマが戦争に関わるものであった。
結果として、本書はクラウゼヴィッツの著作が、人々が自らの価値観や政治・イデオロギー的な見解から論じたい議論を擁護するために、異なるイデオロギーを通じて、いかに多様かつ選択的な読まれ方をされてきたのかを論証したものだ。
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クラウゼヴィッツも人の子です。彼はたしかに偉大な「戦争の哲学書」を書いたわけですが、だからといってそこに書いてあるものが完全に正しいわけではないのですが、未完の本であったために誤解され、誤用され、利用されてきたことはもっと認識されてもいいですよね。
ところが一番の問題なのは、それがどれほど未完であったかという認識のないままに、いまでもそれを「まったく問題ないもの」としてシレっと引用しているというその態度なのかと思います。
この本には、このような問いに対する答えがいくつか書いてあります。ぜひご参考にしてみてください。
もちろん、CDでもこの本からの知見が十分に盛り込んであり、きっちり解説していますので、ぜひご参照のほどをよろしくお願いします。
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