戦争は国家の分断を防ぐ? |
さて、先日の放送(http://goo.gl/H9Bikx)でも触れた、スティーブン・ウォルトのFPのブログの内容の要約です。
マイケル・デッシュといえば、戦略学でも戦略文化についての議論で何度か論文を書いているリアリスト系の学者の一人ですが、ウォルトはこの人の昔の論文を紹介しつつ、現在の国際政治にみられる分断状態は、戦争や外ぶからの脅威が少ないために発生しつつあることを論証しております。
このような議論は、ルトワックのものも含めて、日本でほとんど紹介されませんが、とりあえず傾聴に値する大切な議論でしょう。
ちょっと長い記事ですが、ぜひ。
====
平和への反対論
by スティーブン・ウォルト
現代の世界政治における驚くべきトレンドとして見られるのは、多くの異なる場所で政治的統一性というものが大きく失われつつあるということだ。
たとえば中東では、われわれは「アラブの春」を目撃したし、シリア、リビア、そしてイエメンなどもで殺し合いが行われている。欧州ではEUへの支持率が落ち続けており、イギリスが選挙で離脱を選びそうな勢いだ。そしてスコットランドは相変わらず英国からの脱退を決断しそうだ。
ここアメリカでも、党派面での分裂状態が過去数十年間にないほどの深刻さになっており、民主・共和の両党ともそれぞれ内部に分裂を抱え、共和党の候補にいたっては、様々な面で「ズブの素人」が選ばれてしまった。
つまり最近では、政治的な「中間層」が消滅したと言っても過言ではないほどだ。
これは一体どういうことなのだろうか?今日の不安定な政治状況は「グローバル化による結果だ」と指摘する人々もいる。それが変化のペースを速めて伝統的な文化の規範を脅かし、何百万人もの人々に「端に追いやられてしまった」と感じさせているという。
他には、たった「1%」の金持ちを優遇する経済政策がその原因だとする人もいる。これによって金持ちは自分たちの悪行から逃れつつ、それ以外の人々は残り物を漁るしかない状態に追いやっているというのだ。
さらにはその元凶は「デジタル革命」や「新しいメディア」にあるとする人々もいる。ケーブルテレビやツィッター、そしてその他の現代の通信手段などのおかげで、政治の議論が雑多になり、それへの参加障壁を低くし、過激主義を広め、政治的な嫌がらせの最悪な形のものを正当なものに思えさせてきたというのだ。
たしかにこのような分析はそれぞれ一理あると思うが、これらの分析では、今日の政治における不安定な状態について、さらに重要な説明を忘れている。それは「平和」だ。
もちろん勘違いしないでほしい。私は平和は素晴らしいものであると考えているし、さらに多くの政治家がそれについてオープンに語り、それを推進することを願っている。
もちろんこのような斬新な考え方を思いついたのは自分だ、と言いたいところだが、現代の分裂状態の説明についてはすでに出てきて久しい。たとえば20年前に、国際政治学者のマイケル・デッシュは「戦争と強国、平和と弱国?」という興味深い論文をインターナショナル・オーガナイゼーションという学術誌に発表している。
マックス・ウェーバー、オットー・ヒンツ、ゲオルグ・ジンメル、チャールズ・ティリー、ルイス・コーザーなどの文献を引用しながら、デッシュは戦争(より広く言えば外的脅威)こそが、強い中央集権的な国家や統一性の高い国家の出現を説明する単一の最も重要な要因ではないか、と論じている。
とくに国際的な競争による圧力が、国家に効率の良い官僚制度や効果的な徴税システム、圧倒的な軍隊の発展をうながすというのだ。またそれは愛国主義の推進や内的な分裂を緩和することにもつながるという。つまり玄関にオオカミが迫っていれば、その直近の危険に対処するために国内のいさかいは棚上げされるということだ。
あいにくだが、この議論が正しいとすると、「平和の到来は、国家のまとまりや統一性にとって有害な影響を持つ」ということが言えてしまうのだ。
デッシュは社会学者のゲオルグ・ジンメルを引用しつつ、「ある集団が敵集団に完全に勝利するというのは、社会学的には常に幸運をもたらすわけではない。勝利はその集団のまとまりを保証するエネルギーを減少させてしまうのであり、常に働いている分裂への勢いはこれによって力を得てしまうからだ」と論じている。
では実際の歴史はこの見方を裏付けるものなのだろうか?デッシュによればまさにその通りだという。
彼の文章を引用すると、「国際安全保障競争の度合いの違いも、多くの国家の結束度に影響を与える。ナポレオン戦争の終わりと1815年のヴェルサイユ条約の締結から1853年のクリミア戦争の勃発までの期間に欧州の国々が直面した外的脅威の度合いは比較的低かった。ところがこの期間の欧州各国の国家の統一性は、国内での反乱などで驚くほどのレベルで崩壊した」というのだ。
また、デッシュはアメリカの歴史にもこれと同じパターンが当てはまるという。たとえば1850年までに「アメリカが直面した外的脅威の度合いはかなり低くなったのだが、同時に長年続いていた国内での緊張は高まっていた。1860年の選挙までに国内の分裂は明確になっていて、共和党のエイブラハム・リンカーンの当選時の獲得票はようやく3分の1を越えたくらいで、その他の3党は健闘していた・・・したがって南北戦争は、外的環境の脅威の度合いの変化によって国内の結束が崩壊したために起こったことが原因として挙げられると結論づけることができる」という。
その反対に、2つの世界大戦は現代のアメリカの連邦制度をつくりあげる助けとなったのであり、国家の統一性にとっての強力な動因となったのであり、この流れはその後に続いた冷戦によってさらに強められることになったという。
デッシュの見解によれば、「冷戦は、脅威のタイプとしては“完璧”なものであった。国家を統一に向かわせる際の重大な要因であったにもかかわらず、大規模戦争には決してエスカレートしなかったから」である。
ところが冷戦の終結によって、この統一への動因が失われてしまった。ニルス・ペッター・グレディッシュ、ジョン・ミューラー、スティーブン・ピンカー、そしてジョシュア・ゴールドステインらが論じているように、世界における紛争(と外的脅威)のレベルは、(ごく最近の急上昇まで)減少しつつあったのだ。
その結果は、デッシュが20年前に予測したように、国内での分裂状態の進化であり、国家の有効性の弱体化だというのだ。もちろんこの状態は世界各国のおかれた環境の違いからそれぞれ異なる。たとえば市場メカニズムを活用できている国家は、強制的な動員をするような国家よりははるかに強靭そうに見えるし、国家が強まると共に国内も引き締まる効果もたしかにある。
官僚制度や制度組織はある時点で創設されるものだが、それがつくられた動機と環境が失われたあとでも大抵は生き残るものであり、近代国家は戦争準備だけではなく多くのことをするために、外的脅威が低下しても脅威が出てくる以前の状態に収縮するというものではない。ところがわれわれが目撃しているように、それは国内政治をはるかに分裂的にする役割を果たす可能性を持っているのだ。
デッシュはこれらの論拠を踏まえて、以下のような驚くべき予測を行っている。
「第一に、外的により平和な安全保障環境にいる多民族国家の活力は落ちて行くだろう・・・そのプロセスに生き残れた国家も、これまで以上に高いレベルの民族分離主義や自治権の要求に対処しなければならなくなるはずだ」
「民族的、社会的、もしくは言語的な分断状態の溝が深く、しかも脅威環境が温和な状態にある国家は、国家の統一性を維持していく際の難しさに直面するだろう。注目すべきケースとしては、イスラエル(世俗vs宗教原理主義、多数派のユダヤ人vs少数派のアラブ人)や、シリア(アラウィー派)、ヨルダン(パレスチナ人)のような多民族のアラブ諸国、さらにアフガニスタン(政党乱立)、アフリカ諸国のほとんど(部族)、そしてとりわけ南アフリカ(ズールー族と白人)などが挙げられる」
「国際安全保障競争の度合いが収まった期間が長ければ長いほど、先進国では狭い範囲の利益を追究する利益集団の台頭に直面する可能性が高まるのだ。アメリカでは現在、連邦政府という権威に対して大きな挑戦がつきつけられており、連邦予算を収支を均衡させるために支出をカットする必要があるとの総意ができつつあり、連邦政府の関連機関の削減への取り組みが始まり、国家中心の産業政策に対する批判的な考えが出てきており、共和党が多数派の議会はアメリカ政府の発展を制限しようと取り組んでおり、これまで成功しつつあると言えるのだ」
これらの予測は、私には正しいように思える。
もちろんデッシュのいくつかの予測はまだ完全に実現したわけではないが、彼の論文は、欧米や先進国の一部に見受けられる多くの分裂的な傾向を予期していたといえる。
ようするにデッシュの予測は、少なくともフランシス・フクヤマのわれわれが「歴史の終わり」に到達したという考えや、故サミュエル・ハンチントンの、迫りつつある「文明の衝突」という予測よりははるかに優れていることを証明したと言えよう。
ここまでお読みの皆さんは「ちょっと待て」と言うかもしれない。たとえばアルカイダのような国家が直面する暴力的過激主義などの脅威はどうなんだ、とお感じの方もいるだろう。たとえば911事件は、アメリカで国内の結束を固め、アメリカ本土安全保障局のような組織を創設することにもつながったのではないだろうか?
そしてアルカイダ、IS、さらにはプーチン率いるロシアなどによる政治的な敵対状態の危険の台頭は、デッシュの議論に深刻な疑問を投げかけるものではないのだろうか?
たしかにこのような考えは妥当なのかもしれないが、私は個人的に疑わしいと考えている。なぜならアルカイダをはじめとする集団は、相手が国家の場合のライバル関係ほど、国内の結束を固めるものではないからだ。
もちろん911連続テロ事件や、ボストン・マラソンでの爆破事件、フォートフッドの銃撃事件、そして最近のオーランドでの銃撃事件はショッキングな出来事ではあった。そしてブッシュ政権は911事件のショックを利用してアメリカを誤った戦争に導いたのであり、その過程において様々な方法で政府の権限を強化したことは間違いない。
ところが、それでもアメリカ国民はすぐに慣れてしまった。その主な理由は、実際の脅威が911直後に想定されたものと比べて(幸運なことに)それほど大きなものでなかったからだ。
国内でのテロはたしかにわれわれにショックを与え続けているが、それでも毎年テロで死ぬ人間の確率が400万分の1という確率であるために、長期的に国家の権限を強化させる方向に行かせるまでにはいかない。このような比較的温和な環境のために、特定のアジェンダを追究する狭い利益団体の動きは変わらずに残っているのだ。
さらにいえば、国際テロは不明確な危険であり、国家の恐怖を内向きにして国内の分裂を強める働きをするものだ。敵対的な集団がテロを使った場合、さらには海外での何人かの支持者や、「内通者」や「一匹狼型」、さらには大規模な攻撃計画に対する恐怖を煽ることにもなる。現在のイスラム恐怖症はこのような懸念の典型的な例であり、ドナルド・トランプが共和党の大統領候補に登りつめるまで利用した考え方は、まさにこれなのだ。
端的に言って、もし米ソ冷戦が国家の統一性を生み出すための「完璧」な脅威であったとすれば、テロリズムというのはアメリカをまとめる危険という意味では「最悪」の部類に入る。それは新たな「偉大な世代」の活躍を生み出すまでには至らないし、政治家はむしろ国家の結束を固めるよりも分断するような最悪の恐怖感を簡単に利用できることになるからだ。
もしデッシュの議論が正しければ――そして私は正しいと思うが――、そこから出てくる暗示は皮肉であると同時に、とても落胆的なものだ。それは、外的な危険を減らすことには否定的な側面があり、われわれが外の世界から脅威を感じなければ感じなくなるほど国内でいざこざを起こす可能性が高くなる、ということだ。
さらに悪いのは、平和はそれ自身を破壊するタネを持っている、ということだ。実際にわれわれが中東で目撃しているように、国家の統一性と権威の崩壊というのは、最終的には外部の「列強」を呼び戻すことにもつながるような、暴力的な内乱を容易に発生させるものなのだ。
ところがわかりやすい解決法――外の恐ろしい勢力の支持を得ようとすること――というのは、当然ながら魅力的な選択肢とはならない。結果として、平和的な期間が新たな緊張と分断の原因をつくるような紛争のサイクルが続くことになるのだ。
私を「リアリスト」にしたのは、国際政治におけるこのような不穏な状況だと考える人はいるかもしれないが、それは正しい。
====
うーむ、出ましたね。ルトワックは「戦争には戦争をしたいとする人々の感情の火を消す役割がある」という議論を行ったことで有名ですが、デッシュの場合は「国家をまとまらせる」ということを言っております。
グレイも『戦略の格言』の中で「平和は戦争の原因である」という議論を展開しておりますが、これはより社会学的なアプローチから論じられている点がミソですね。
たしかに気が滅入る結論と言えますが、ここから日本国内の問題、たとえば沖縄の話などに当てはめて考えると、なんとなく納得できる部分もあるわけで興味深いです。
▼~あなたは本当の「孫子」を知らない~
「奥山真司の『真説 孫子解読』CD」
▼~これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です。~
「奥山真司の現代のクラウゼビッツ『戦争論』講座CD」
▼奴隷の人生からの脱却のために
「戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
▼奥山真司の地政学講座
※詳細はこちらから↓
http://www.realist.jp/geopolitics.html
http://ch.nicovideo.jp/strategy2/live
https://www.youtube.com/user/TheStandardJournal