原爆に関する5つのウソ:原文要約 |
さて、終戦記念として前のエントリーの原文を要約してみました。
アメリカ側の原爆投下に対する歴史観がわかるという意味でも貴重だと思いますのでぜひ。
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2015年7月30日 ワシントン・ポスト紙
1945年8月6日、アメリカは日本の都市、広島に原爆を投下し、8月9日にはもう一発を長崎に落としている。
それから数十年間が経過したが、第二次世界大戦中の核兵器の使用の決定についての議論や誤った情報がまだ存在している。70周年がたとうとしている今、この時の出来事について広く間違って伝えられている5つのウソを是正してみたい。
(1)原爆が戦争を終わらせた
原爆が1945年8月15日の終戦の決定につながったという考え方は、アメリカのほぼすべての歴史教科書に載っているほどで、アメリカでは戦争の集結については最も一般的な考えとして受け入れられている。
ところが当時の日本政府の動きが記録された議事録などを見ると、真相はそれほど単純ではないことがわかる。
ソ連参戦以前の日本政府は、ソ連(日ソ不可侵条約を結んでいた)がアメリカとの戦争の講和の際の仲介役になってくれると考えていた。
したがって、この2つの出来事に8月9日の2発目の原爆投下が加わって、降伏の決断を促したと言えるのだ。
(2)投下が米兵50万人の命を救った
ハリー・トルーマン大統領は、戦後に書いた回顧録の中で、もし日本に上陸戦をしかけていたら50万人の兵士が命を落とすと軍のトップたちに進言されたと書き残している。この数は、原爆投下を正当化しようとした人々の間ではほぼ公式の数字であるかのような扱いを受けている。
ところがこの数は、当時の軍の推定とは異なるものだ。スタンフォード大学の歴史家であるバートン・バーンスタインが記しているように、アメリカの統合戦争計画委員会は、1945年6月半ばの時点で、11月1日に予定されていた日本への上陸侵攻では19万3000人の死傷者が出て、そのうちの4万人が戦死すると予測している。
ところがトルーマンが戦後に思い返したように、もし準備が整っているのに原爆投下をせずに米軍兵士が浜辺で死んでいたら、たしかにアメリカ国民の怒りに触れていた可能性はあるのだ。
核兵器の使用の決断については二者択一の形で表現されることが多い。つまり、投下するか上陸するかのどちらかしかなかった、というものだ。ところがそのまま日本に対して空襲を続けて海上封鎖を継続する他に、当時は二つの選択肢が考えられていた。
一つ目は、実際の軍事使用の前に、原爆を示威的な意味で使うというものだ。それは日本やその他の国から誰かを招待して、その目の前で誰も住んでいない島や砂漠に原爆を落として爆破するのを見学させることや、東京のすぐそばにある富士山の上部を爆破して吹き飛ばすというものだ。
ところがこのような示威的な選択肢は実践上の問題から否決されてしまった。1945年8月にはたった2発の原爆しか完成しておらず、示威的な爆破も失敗する可能性があったからだ。
二つ目の選択肢は、日本側の降伏条件を飲むというものであった。
アメリカ政府は傍受した公電から日本政府が最も懸念していたのは昭和天皇が戦争犯罪人として扱われないようにすることであることを知っていた。日本の降伏文書では「天皇条項」が最後の障害となっていたのだ。
ちなみにフランクリン・ルーズベルト大統領は無条件降伏を主張しており、1945年4月半ばになくなった後のトルーマンはその要求を拒否している。
アメリカは最終的に日本の無条件降伏(ポツダム宣言受諾)を獲得したが、実質的に「天皇条項」は守られることになった。
マッカーサー将軍は「私は日本国民が見ている前で(昭和天皇を)貶めるようなつもりはない」ということを降伏後の日本側の外交官たちに約束している。
(4)原爆投下前に日本側に事前警告があった
アメリカは日本の多くの都市に対して空襲の直前にビラを投下し、市民たちに逃げるよう勧告している。
1945年7月26日のポツダム宣言の後に、そのビラには宣言を受諾しなければ「急激かつ激しい破壊」が行われるという警告が記されていた。また、トルーマン大統領もラジオ演説の中で「地球上で今まで見たことがないような空からの破壊の雨」が降ると述べている。
これらのことから、アメリカの多くの人々は「日本の一般市民は核攻撃の前にすでに十分警告を受けていた」と信じるようになり、現在でもこのような論調は様々なところで見受けられる。
ところが最初に核兵器が使用された広島や長崎では、このような警告はまったく行われていない。
すでに日本の都市は焼夷弾や爆弾などで定期的に空襲を受けていたために−−3月の東京大空襲ではすでに10万人が死亡−−ポツダム宣言やトルーマンの演説が日本側にとくに注目されたとは思えない。
(5)原爆投下はソ連に対する外交優位を獲得するタイミングで行われ、それはアメリカにとって冷戦初期の「切り札」として証明されることになった。
この主張は修正主義史観をもつ人々たちの議論によく使われるものであり、彼らは「アメリカ政府高官たちはソ連が参戦してきて戦後の講和会議で発言力を増す前に、原爆によって日本との戦争を終わらせたいと考えていた」と論じる。
また、当時アメリカしか持っていなかった原爆を使用することによって、ソ連側に新しい兵器の凄まじさを認識させる狙いもあったというのだ。
ところが現実には、原爆投下のタイミングを決定したのは、外交的な優位よりも軍事的な事情であった。なぜなら米軍は「原爆は完成次第投下せよ」という指示を受けていたからだ。
もちろん原爆投下目標の選択には戦後の政治状況の考慮が関係したことは間違いない。ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、歴史・文化的にも重要な京都を攻撃目標からはずすよう指示している。
スティムソンによれば、トルーマンもこれに同意しており、「(京都のような都市に)残虐な行為を働いてしまえば日本国民に苦い記憶を残し、戦後の長期に渡る占領期間に、彼らがロシアではなくアメリカと和解することを不可能にしてしまう」と述べたという。
スティムソンと同様に、トルーマン政権の国務長官であったジェームス・バーンズはその後のソ連との外交において原爆は「切り札」になるはずだと考えていた。
ところが実際は両者ともこれが実現しなかったためにがっかりしている。1945年9月にバーンズは、戦後最初にロンドンで行われた外相会議から帰ってきた後に、ソ連側が「頑固で意固地で無関心であった」と証言している。
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軍事的な破壊力は、必ずしも政治的な面でレバレッジを発揮できるわけではないため、なんというか、「軍事力というのは鈍いツールである」、という言葉が実感できる話です。
それでも核兵器というのはクラウゼヴィッツに従えば、戦争そのものと同じく「政治のツールである」ということが言えそうです。
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