良い文章を書きたかったら外に出ろ! |
さて、スーザン・ケインの「内向型人間の時代」や、私の「累積・順次戦略のCD」に関連した内容の面白いエッセイがありましたのでその紹介を。ここにも「社会とテクノロジー」というキーワードの存在が。
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書きたいなら外にでなさい
By キャロル・カウフマン
●秋が来た。外に出るには最適の季節である。これはつまり、私のものを書く作業の効率がアップすることを意味している。
●バラバラな考えを文章にまとめるためには、気持ちの良い日に木陰に座ることほど最高な状況はない。
●心地いいそよ風が吹いていて、鳥が歌をさえずり、私の周りを小さな虫たちが急いで這いずりまわっていて、しかも充電が満タンのラップトップ、もしくは大きなノートがそばにあれば、私が最高の文章を書けるのは確実なのだ。
●私が文章を書くための最高の状況を知ったのは、単なる偶然からだ。ナショナル・ジオグラフィック誌の記事の複雑な説明文をどう書こうかと頭を悩ませていた時に、私は家から出てポトマック川まで歩き、ノートと写真のコピーとペンを持っていったのだ。
●私は川沿いのピクニック用のテーブルに腰掛けて、川の水を眺め、自分の頭の中を考えるにまかせてみたのだ。目をトロンとリラックスさせ、どこにも焦点を当てないようにしてみた。
●すると、突然書く作業が楽になった。頭の中に引っかかっていた言葉が出てくるようになり、視点を大きくしてものごとを俯瞰的に見られるようになり、何を書くべきかがわかったのだ。
●色々と調べてみると、家の外で書くことが私にとって最適である理由がわかってきた。そしてこれは、どうやら私以外の世界中の著者たちにも当てはまることみたいなのだ。
●1970年代のことになるが、レイチェル&スティーブン・カプランという二人の新進気鋭の環境心理学者は、人間の思考における自然の癒やし効果を研究し始めた。その数十年後、彼らの研究で判明したのは、自然とのつながりは人間の精神面の疲労を防ぎ、注意力の散漫を修復し、思考を鋭敏化させるということだ。
●また、都市の中の環境においても小規模の緑でさえわれわれの感覚を活性化してくれるという。自然の中に身を置くことはわれわれの生きているという感覚を蘇らせてくれるものだ。
●2010年に環境心理学ジャーナルに掲載された別の研究でも、自然の中に身を置くことで人間は活力の上昇を感じ、逆に無気力を感じにくくなるという結果が出ている。これらはすべて、細かいことや物語の緊張を溢れさせるという、ものを書く際に最も重要な要素なのだ。
●結局のところ、人間は半分寝ているような状態では良い記事など書けないということだ。
●また、これは色々な電子機器の警告音に囲まれている状態でも同じことだ。作家でジャーナリストのリチャード・ロウブは、テクノロジーがわれわれの注意をそらすことについて考えてきた人物なのだが、彼の長年の研究から、人間は自然と接することによって多くのことを獲ることができるという主張を行っている。
●彼の有名な本(Last Child in the Woods: Saving Our Children From Nature-Deficit Disorder)の中には、自然と接することは子供の精神や身体の健康のためだけでなく、大人にとっても重要であるという証拠が盛り込まれている。この「大人のビタミンN(自然)の欠乏症」については、近著(The Nature Principle: Reconnecting with Life in a Virtual Age)の中でも触れられている。
●私は彼にたいして、私の「外で書く理論」について聞いてみた。
●すると彼の答えは、「あなたが外で書けるというのは、もちろん自然とのふれあいもあるでしょうが、それよりもあまりにも多くの注意を散漫にする邪魔なものが、外に行くとなくなるからかもしれませんね。そのほとんどがテクノロジーに関するものなんですが」とのこと。彼自身も湖や森の近くでものを書くと調子がいいそうだ。
●「通信機器によるの情報の洪水は“妨害科学”(interruption science)とでも呼ぶべき新しい研究分野や、人間にとって新しい環境である“継続的部分注意”(continuous partial attention)を生み出したのです」とはロウブ氏の弁。
●彼によれば、常に電子的なじゃまが入ることは、真剣に仕事をしようとしている人間にとってはフラストレーションやストレスがたまることになり、創造力は確実に下がるという。なんたることだ!
●もちろんこれはありえそうな結論であるが、われわれのようなもの書きにとって、室内のインテリアはどれほど被害を与えているのだろうか?なぜわれわれは人工物だらけのオフィスや携帯のアプリが邪魔する中でものを書こうとするのだろうか?
●これこそまさに「部分的な思考」の状態である。なぜならわれわれの思考は、屋内ではあまりにも多くのことに分散されてしまっているからだ。
●もちろん私自身にも責任がある。子供を学校に送ったあと、私は自分のラップトップが置いてあるダイニング・テーブルから動こうとしないし、まだ朝食の片付けが終わっておらず、いくつものガジェットが色々な警告音を発している中では、私は30分間も仕事をしているはずなのに、全然集中できていないことが多い。
●ロウブ氏は「問題なのは、われわれの生活の中では段々と電子の侵入(electrotrusion)から逃れられる場所を見つけるのが難しくなっているということなんです」と述べている。ちなみにこの言葉は、彼の造語である。
●でも私はひとつの答えを知っている。私は自分の理想のオフィスが、サバンナの真ん中にあって、Wi-Fiの電波や、電線さえも届いていない場所にあることを発見してしまったのだ。
●私は近著の『サファリ』という本の取材のためにケニヤ南部のデコボコ道を車で揺られている時に、まるで狂ったようにそこで感じた印象や考えをノートの中に書きなぐった。
●吸血バエをたたきながらものを書くというのは、ガイドの言葉やチーターについてメモを記すためには理想的な状態とは言えないはずだ。ところが私にとって、これは理想的な状態だったのだ。
●この時に書いた文字はもちろん酷いものだったのだが、そこに書かれたことの出来栄えはよく、結果としてこれが本の文章の中に活きてきたのだ。
●つまり読みにくい文字は清書できるが、考えのまとまっていないものは煮ても焼いても食えないのだ。
●ダイアン・アッカーマンはある本(A Natural History of the Senses)の中で、「ほとんどの人は思考が頭の中で行われていると思っていますが、最近の生理学の研究では、それが脳の中にあるのではなく、ホルモンや酵素によって身体全体を流れており、触感や味覚、嗅覚、聴覚、視覚という複雑なものを構成していることが示されています」と述べている。
●自然の中――私の場合は象やライオンやクロコダイルの住む場所――に身を置き、さらにはその環境に耳を済まし、匂いをかぎ、それを感じて味わうことほど良いことはない。
●私は現在、海についての本を書いている。現在はまだそのリサーチ段階であり、室内でさまざまなガジェットや用事に囲まれながら行っており、これはかなり困難な状況だ。
●ところがもうすぐ私は屋外にでる予定だ。自分の目で海のいきものや植物を確かめ、そこから書く作業に入るのだ。
●もちろん私はつねに海やアフリカのサバンナに行けるわけではないし、そのようなチャンスはかなり稀だ。それでも私はそこから得た教訓は忘れていない。室内のテーブルではなく、家の裏庭に行くことを学んだのだ。たしかに私の家の裏庭は小さいが、それでも隣の家の木や豪華な藤の木に囲まれている。
●たしかに最初は完璧にはいかないのだが、しばらくすると言葉がどんどん浮かんでくるのだ。
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少なからずものを書くという仕事に従事している自分にとって、この記事は非常に色々な示唆を与えてくれるものです。
そういえば私の先生の自宅にある書斎も、外の庭に面していて景色を眺められるようになっておりました。以下がその実際の様子です。