国際政治におけるフィジカルとメンタルの対立 |
さて、随分と前から考えていることについて、メモ代わりにここへ。
数週間前に参加したある講演会で、「国際関係論というのは、究極のところをいえば、国を動かすリーダーたちの頭の中でどのような認識がなされているかだ」という印象的な言葉を聞きました。
しかもこの言葉を発したのが、アメリカのリアリスト系の学者であったことから、この発言はさらに感慨深いものに。
なぜなら、国際関係におけるリアリスト系の議論というのは、どちらかといえば唯物論的なものが多く、理論の基礎になっているのは国家の「パワー」であり、これは物理的にも計測可能なものであるという前提を踏まえながら理論を構築するからです。
この典型的なのが、私が翻訳した『大国政治の悲劇』の著者であるジョン・ミアシャイマーでありまして、彼は「国家のパワーは国の持つ陸上兵力によって計測できる」という強固な立場を崩しておりません。
考えてみれば、古典地政学の論者たちも基本的にはこのような唯物論的な前提に立って議論を構築しておりまして、たとえばニコラス・スパイクマンなどは、
「地理は、国家の対外政策の要素の中で最も根本的なものである。なぜならそれは最も永続的なものだからだ。大臣たちは登場してもいずれは去るし、独裁者でさえいつかは死ぬが、山脈は微動だにしない」
という印象的な言葉を残しております。
これを言い換えれば、地理というフィジカル(物理的)な要素を中心にして国家の関係を見ていくという、いわば唯物論的なものの見方であるわけですが、ナチス・ドイツがあまりにこのような見方を極端に推し進めて失敗したために(ドイツ)地政学が第二次大戦後に抹殺されたのはみなさんもご存知の通り。
しかし、このような見方とは反対の、いわば唯心論的なもの見方が、アメリカの社会科学を中心として発達してしまったために、逆に地理のようなフィジカルな要素を国際政治から排除することになりまして、ここで大きな問題が出てきます。
ちなみに国際関係論で(リアリストであるにもかかわらず)その唯心論的な理論をピークにまで高めたのが、今年前半に亡くなったばかりのケネス・ウォルツのシステム論です。ここには驚くほど地理についての考察がなく、メンタル的というか、自然よりも「社会」がその考察の中心になっております。
もちろんその弟子たちは、その同じネオリアリズムに属しながら、地理という概念もいれなくてはマズイよねということで、その反対にフィジカルな地理というものをどんどん加えていったわけですが、逆にコンストラクティビズムのように「規範」のようなメンタル部分を強調するものが90年代から盛んになり、最近になってインターネットやサイバー、それにインテリジェンスという、まさにフィジカルを越えたメンタルに直接作用するものが登場。
そして冒頭の「国際関係論というのは、究極のところをいえば、国を動かすリーダーたちの頭の中でどのような認識がなされているかだ」というリアリストの発言もあり、やはりメンタル優勢かという議論もできるわけですが、私が地政学をやりながら国際関係論を傍から見て感じていたのは、このような「メンタル一辺倒」への流れへの警戒感でした。
私がなぜ地政学にここまでこだわるのかというのは、結局のところは人間はフィジカルな存在であり、地理のような要素はいくら「サイバーだ」と言ってごまかそうとしても絶対になくならず、むしろそれを忘れてしまった時に、カプランの言葉を借りれば「地理が復讐してくる」わけです。
ということで、なんだかまとまりがないですが、私が言いたかったのはフィジカルもメンタルも、どちらか一方だけに偏ったものの見方は危険ですよ、ということです。
スパイクマンも言っております。
「地理的な事実は変化しないが、それらが対外政策に与える影響は変化する」
この「事実」と「変化」いうところに、最も重要なことが隠れているような気が。