大学での教育の本当の価値は?その2 |
なぜ私は教えるのか
by ゲーリー・ガッティング
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●生徒たちは新しい知的かつ美的な充足感――つまり「満足感」――を与えてくれる可能性に気付くのである。
●もちろん彼らは課題で出される本をすべて楽しむわけではない。ところがその内の何冊かは興味を引くだろうし、このようなこと(ギリシャ哲学、近代文学)でもけっこう面白いものであるということを学ぶのだ。
●彼らはその可能性については二度と深入りしないかもしれないが、それでもそれが彼らの人生の一部として残り、たとえばホメロスの新訳やエリオットの新しい伝記が出版された時、それに「タルチュフ」や「かもめのジョナサン」が近所の劇場で公演されるときには興味が復活するかもしれないのだ。
●大学の教育というのはそのような可能性、つまり数学的発見の美しさ、科学の理解のスリル、歴史的な語り口の魅力、そして神学の思索のミステリーなどを拡散させることにあるのだ。
●われわれは教育というものを、「生徒に教えた知識の量」ではなく、それが発生させる興奮の長さによって測るべきなのだ。
●知識というのはその後からついてくるものであり、よい先生が生徒の魂に植え付けたときにタイミングがあったときに一気に燃え上がるものなのだ。
●大学教育の成果というのはテストではなく、博物館、クラシックのコンサート、芸術系の映画館、本のディスカッショングループ、それに「サイエンティフィック・アメリカン」「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」「エコノミスト」「アトランティック」のような雑誌などの人気度から測るべきなのだ。
●このような場でこそ、われわれの生徒たちが教育の利益を受けとれるのだ。
●もちろん多くの人はこれをあいまいな理想主義であったり、大学教育に必要な職業訓練としての面を無視していると見るだろう。生徒たちは仕事が必要であるし、雇い主側は練度の高い社員を必要としているからだ。
●このような残酷な事実にたいして、ここで言われているような「思考の楽しみ」は何の役に立つのだろうか?仕事に必要なことだけを教えるというのもそれだけでかなり大変なのだ。
●ところが彼らが実際に仕事に必要としているものは一体何なのだろう?医学やエンジニア系の職業では、たしかに学校で得る専門知識がその後も必要になってくるだろう。
●ところがそれ以外にも、(よく言われるが)われわには批判的な考え方や創造性が必要なのだ。これは暗黙の疑わしい前提に気付く能力のことであり、新しい理解の仕方を発展させるということだ。つまり「みんなが知っていること」の先を考えなければならないのだ。
●ところがそのような批判主義や創造性を生み出すのは、結局のところはわれわれの知的文化――物理学者と詩人、心理学者と音楽家、哲学者とビジュアル・アーチストー―なのである。
●この文化に気付かない人々は、新しいものの見方や考え方への最初の一歩をもっていないことになる。
●これについてエズラ・パウンドは「文学とはニュースであり続けているニュースである」と言っているのだが、これはすべての人文学と科学における偉業についても言えることだ。
●もちろん多くの会社では批判的で創造的な社員はいらないのかもしれない。それでも知的文化への取り組みは多くの個人の生活にとって計り知れないほどの楽しみの源泉となるのだ。
●大衆のエリート嫌いは、このような取り組みを「限られた数のマニアたちの奇抜な趣味である」という判断に流してしまう。
●ところが知的文化を楽しめる能力を持っている人たちは、少なくともそのチャンスを活かすべきなのだ(これは映画「リタと大学教授」の教訓だ)。私は大学教育というものを、知識を与えることではなく、このような歓びに門戸を開くための活動であるという風にとらえはじめている。
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私も比較的長く大学にいたほうなので、このような考え方はけっこう身にしみてわかっているようなつもりです。
結局は詰め込みだと何も残らないのですが、たしかにこの人が言うように、自分が受けた「いいコース(モジュール)」というものは、あとから考えると「高度に知的な活動をしていたなぁ」という印象がとてもいい思い出になっていることがあります。
著者はここが一番重要だと言いたいでしょうなぁ。