リーダーたちのジレンマ |
さて、近づいている衆議院議員総選挙について簡単なコメントを一言。
民主党政権の数々の失敗、というか機能不全を経ての、実に三年ぶりの衆議院議員総選挙が来月の16日に開催されることになったのはみなさんもすでにご存知の通りですが、これについて少し思うところが。
今回の民主党政権は、いわゆる「マニフェスト」と呼ばれるものを掲げて政権交代を果たしたわけですが、最近の日本で見られるようなこの「目標明確型の民主選挙」を目撃してくると、政治だけでなく、あらゆる組織のリーダーシップというものに潜むジレンマを感じることばかり。
すでに皆さんはご存知かもしれませんが、私が最初に地政学を習ったのは、伝統的な「古典地政学」を批判することに意義を見いだす「批判地政学」のルートからだったのですが、ここでとくに批判対象として出てくるのは「地政学コード」などと呼ばれる、いわばフィクションによる「単純化されたキーワード」みたいなものです。
たとえばマッキンダーの「ハートランド」とか、ジョージ・ケナンの「封じ込め」とかリップマンの「冷戦」、それにレーガンの「悪の帝国」からブッシュの「悪の枢軸」「テロとの戦争」まで、とにかく国際政治の政治地理的な枠組みを教える、いわば「単純化したキーワード」に色々とツッコミを入れる、というのが批判地政学の研究の「肝」だと言えるでしょう。
こういうところから学問を学んだので、いまでもこのような特定のイメージ(世界観・地理観)を持つ言葉がどうしても気になってしまう自分がいるわけです。
ところが批判地政学の決定的な限界があります。それは、基本的に「批判だけ」なので、代替案というか、別の政策を出すという方向にあまり行かないことです。
いいかえれば、批判地政学の研究者というのは、政治のリーダーたちや政府がやっていることを徹底的に皮肉っているだけともいえるわけで、「単なる揚げ足取りでしょう」と逆にツッコミを入れられる危険もあるわけです(実際に古典地政学系に理解を示す研究者でそう批判する人もいます)。
現代の地政学に見られるこのような対立構図を簡単に示しますと、
●古典地政学(権力側):フィクション的な、単純化したキーワードを使用
vs.
●批判地政学(批判側):フィクションを暴くために、キーワードを分析・批判する
ということになります。
ところがこの「権力側vs批判側」という対立構図ですが、実は国内政治や組織経営などについてもそのまま適用できます。
たとえば橋下氏が主導した大阪維新の会の近年の躍進ですが、あそこには「大阪都構想」という、古典地政学でいうところの「封じ込め」と似たような性格の「単純化したキーワード」が使われました。
地政学の世界でしたら、ここで批判地政学の論者たちが出てきて、「大阪都構想という言葉にはこういう前提がある」とか「背後にどのような意図があるのか」のような点を哲学的に分析したりするわけですが、日本だとこれをメディアや知識人たちが担当して「橋下批判」のような形でやります。
しかしここでひとつのジレンマが発生します。
なぜならこのメディア・知識人側のツッコミがあまりに強すぎると、(とくに日本のような国では)リーダーとなる人が余計なプレッシャーによってつぶされてしまい、結局何も決められなくなってしまうからです。
ところがあらゆる「リーダー」のひとつの役割としてあるのは、多くの人々を(良い意味でも悪い意味でも)うまく騙して、国や組織全体をひとつの方向に向かわせなければならないという点です。
そしてその場合には、どうしても政治や経営環境や社会の現実という複雑な現象を思い切り単純化した、わかりやすいイメージやキーワードを使わざるえないわけです。
なぜならリーダーたちは、古典地政学が使うような「単純なキーワード」というものを使わないと、部下や民衆、ひいては国そのものを動かせないからです。
政治でも組織でも、それをある程度効率よく運用するためには、どうしてもツッコミ所満載なもの、つまり「マニフェスト」や「政権公約」、それに政敵をシンボル化したり単純化したりする言葉などを使わざるを得ないということです。
じゃあそのツッコミを入れていた批判側が、権力側に代わっていざ自分たいが権力側に回るとどうなるかというと、彼らもさっそく怪しい単純化されたキーワードを使いはじめます。使わざるを得なくなってしまうのです。
そうなると今度はいままで自分たちが権力批判に使ってきたやり方そのものに苦しめられることになります。批判していたその矛先が、今度は自分たちに向いてきてしまうという「ブーメラン」状態の完成です。
話が広がりすぎてしまいましたが、結論だけいうと、あらゆる組織のリーダーというのは、どうしてもツッコミ所満載の、極めて怪しい「単純化されたキーワード」を使わざるを得ないわけですが、なぜそうせざるを得ないのかというと、そうしないと組織全体(国であれ会社であれ)を動かすことができないからです。
さらに言えば、人間を動かすには(良い意味でも悪い意味でも)「フィクション」が必要だということです
そのフィクション性に気づいた批判側が、そのフィクションが具現化されえたその「キーワード」を批判しても、彼らがいざ権力側に回ったときには、同じくそのキーワードを、自分自身が使わざるを得なくなります。
最悪の場合は、その「キ―ワード」を批判するために、さらに別の(フィクション的な)「キーワード」を使わなければならないという矛盾が。マルクス主義なんかがこの典型でしょう。
なんだか上手くまとまっていないような気がするんですが、ようするに私の言いたいことは、このようなフィクション/無理矢理な単純化の必然性というのは、あらゆる政治につきまとうジレンマかと。
ということで、みなさんも来月16日の総選挙にいたるまでに、各党・各候補の使うキーワードや、どのようなフィクションを使っているのかに注意してみていくと、意外と面白いかもしれません。