「北朝鮮核実験・ミサイル発射」記念論文:その4/7 |
ところがソ連の確証破壊能力は、アメリカ政府の戦略防衛の無関心の結果として引き続きそのまま残っているのであり、これはアメリカが機能麻痺に陥る可能性を秘めていることを示している。つまり標的選別計画というのは、それがどんなによく計画された理路整然としたものであっても、敵が報復によってアメリカ社会にダメージを与えることができるようなものである場合には全く使い物にならないことが証明されてしまう可能性が高いのだ。
現在、戦略に関する政策の四つの分野——戦略、兵器の開発と獲得、軍備管理、そして防衛ドクトリン——というのは、それぞれ別々のものとして扱われている。理論的な面から言えば、戦略というのはそれ以外の三つの分野を決定しなければならないものだ。
ところが実際にはこれがそうであった試しはない。つまりいままで「戦争を戦うための戦略」と描き出されてきた理論も、その実態はそうではなかったのであり、むしろそれはアメリカの抑止理論を、戦争そのものへと拡大解釈したものだったのだ。限定核オプションや標的選別の柔軟性や選択性などを主張することは、戦争を戦ったり、戦争で生き残るための戦略を提唱することとは違うのである。
戦略家たちは「核戦争を戦う」というアイディアに魅力を感じていない。その代わりに彼らは「核戦争を実行して生き残ることができる能力というのは、抑止の効果のためには不可欠だ」と考えるのだ。
ところが戦時の能力とは無関係な「適切な抑止体制」というのは幻にすぎない。核戦争での勝利/敗北というのは実際に起こりうることであり、ある時点でそのような戦争を行わなければならなくなる可能性はあるのだ。そして核戦争を成功裏に終結させようと思うなら、それは開始直後の早い段階でうまく行われるべきものである。
もちろんここではアメリカの戦略の主な狙いが「抑止」にあるということを勘違いしてはならない。しかしアメリカの戦略兵力というのは、ソ連の核の脅威や実際の米国本土への攻撃を抑止するという目的のためだけに存在しているのではない。むしろそれらはアメリカの対外政策を支えるためにあるのであり、たとえばこれはアメリカが西ヨーロッパを東側の侵攻から守るというコミットメントを持っていることからもわかる。このような役割を果たすためにアメリカの戦略兵力に求められているのは、大統領が戦略核兵器を強制的な(しかし政治的には防御的な)目的のために使用できるようにする、ということだ。
いままでのアメリカの戦略というのは、そのほとんどがボトムアップのプロセスによって形成されてきた。そのような標的の選別の戦略には、戦争という全体的な概念や、自分たちにとって戦争をどのように有利な形で終わらせれば良いのかという考えがないのだ。アメリカの国防コミュニティーというのは、ある計画が示している方向が受け入れられるようなものでなければ、戦いにおけるより具体的なレベルについて知的な計画をつくることができないのだ。
ほとんどの柔軟標的選別についての分析では、「核戦争が起こっても高い(政策)レベルではほぼ完璧な安定が存在する」ということが大前提になっている。柔軟標的選別を提唱する人々は、アメリカの限定核オプションががエスカレーションのプロセスの開始を警告することになるため、都市部の工業地帯を破壊するというアメリカ側の脅しにソ連が屈すると論じている。
ところが「アメリカの確証破壊の脅しは、限定核オプションから始まるエスカレーションをおそれるソ連を抑止することになるが、その逆にアメリカのリーダーたちはソ連の脅しに関係なくそのプロセスを始める」という議論は矛盾しているように見える。そもそも戦略的均衡もしくはソ連の優勢に直面している時に、「アメリカには強い決意があるが、ソ連は優柔不断である」と言えるような根拠は一体どこにあるのだろうか?